改訂新版 世界大百科事典 「崔益鉉」の意味・わかりやすい解説
崔益鉉 (さいえきげん)
Ch`oe Ik-hyǒn
生没年:1833-1906
朝鮮,李朝末期の文臣,学者,義兵将。字は讃謙。号は勉菴。李恒老の門人であり,衛正斥邪論者。1855年文科に及第して官途に就いた。73年戸曹参判となるが上疏して大院君の書院撤廃等の施策を論難したため,75年まで済州島に流配された。76年日朝修好条規の締結の際には,斧を担いで宮門外に進み上疏して開国通商は亡国をもたらすとして強硬に反対し,全羅道黒山島へ流配された。79年以降は故郷の京畿道抱川に隠棲した。甲午改革には反対し,断髪の強要にも屈しなかった。96年義兵が起きると宣諭大員に任命されたが義兵擁護の上疏を呈して辞職。98年には議政府賛政などに任命されたが独立協会排撃の上疏を呈して辞退。1904年日本の軍事支配が始まると高宗に召されて入京し,抵抗運動を展開したが翌年日本軍によって追放された。忠清南道定山に住まいして反日行動を続け,06年6月,門人らとともに全羅北道泰仁に義兵闘争を起こしたが敗れた。対馬の監獄にとらわれ同地にて没した。その言論,行動は旧体制維持の立場から日本の侵略とブルジョア的改革の実施とを頑強に拒む点において一貫していた。著書に詩文集《勉菴集》がある。
執筆者:糟谷 憲一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報