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儒教 じゅきょうRu-jiao; Confucianism

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

儒教
じゅきょう
Ru-jiao; Confucianism

孔子教説を中心とする思想教学,祭祀の総称。中国仏教道教とともに中国における中心的な哲学体系。また,仏教とともに東洋文化を形成する基盤となっている。その教説は,代以前は五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)を中心とし,代以後は四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視する。つまり,宋代 11世紀頃を境に,内容に大きな変化があった。宋代以降のいわゆる新教の中心課題は『大学』にある「明徳を明らかにし,民に親しみ,至善に止まる」という 3綱領と,それへの道筋としての 8階梯(格物,致知,誠意,正心,修身,斉家治国,平天下)によく示されている。すなわち「修己治人」(自己を磨き,その完成された徳をもって人を治める)である。日本には 4~5世紀頃に伝来し,十七条憲法大化改新律令制の理念などに大きな影響を与え,大宝律令制定後の大学寮においても必須科目とされたが,仏教思想が支配的であったため教学として特に目立った展開はみられなかった。しかし,近世初期に藤原惺窩が出て以来,林羅山山鹿素行伊藤仁斎ら多くの儒家が輩出して,江戸時代にいたってめざましい展開がみられた。

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デジタル大辞泉の解説

じゅ‐きょう〔‐ケウ〕【儒教】

孔子が唱えた道徳・教理を体系化したもの。その学問内容を儒学という。儒教は、その国家教学としての規範性・体系性を強調した称。→儒学

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百科事典マイペディアの解説

儒教【じゅきょう】

孔子の教説を中心として成立した儒家の実践的倫理思想とその教学の総称。学術面を強調して〈儒学〉とも,開祖の名をとって〈孔子教〉(英語でConfucianism)ともいう。
→関連項目王道・覇道漢民族義理孔教五経博士国学(近世)古注三教指帰中華人民共和国朝鮮人読史余論武帝(前漢)本居宣長礼記論語

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世界大百科事典 第2版の解説

じゅきょう【儒教 Rú jiào】

中国で前漢の武帝董仲舒(とうちゆうじよ)の献策儒家の教説を基礎に正統教学として固定し,以後,清末までの王朝支配の体制教学となった思想。この儒教は,政治・文化の担い手であった士人(官人地主層)の主たる思想となり,その歴史・社会の変化に応じて,仏教・道教の教説を受容して教義を豊かにしたが,この儒教思想の史的展開がとりもなおさず前近代中国の思想史の主流をなす。したがって郡県制帝国の王朝体制が克服される近代化の過程で,儒教は思想・文化上の打倒目標となり批判された。

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大辞林 第三版の解説

じゅきょう【儒教】

仁を根本とする政治・道徳を説いた孔子を祖とする中国の教説。儒学の教え。 → 儒学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

儒教
じゅきょう

中国の代表的思想。春秋時代末期の孔子(こうし)(孔丘)に始まり、戦国時代には諸子百家(しょしひゃっか)の一つであったが、漢(かん)の武帝(ぶてい)の紀元前136年(建元5)に国教となり、それ以後清(しん)朝の崩壊に至るまで歴代朝廷の支持を得、政治権力と一体となって中国の社会・文化の全般を支配してきた。また漢字文化圏とよばれる日本、朝鮮半島、東南アジア諸地域にも伝わり、大きな影響を与えている。
 同類の語として儒学・儒家があるが、中国では儒教の語はあまり用いられず、学派を意味する儒家、その学問をいう儒学の語によってこれを示すことが一般的である。儒教の語は、外来の仏教に対して300年ごろに生じたものであるらしく、後世に至るまで主として儒仏道三教を並称するような場合に使用されていた。儒家・儒学に対していえば、儒教は教化の面を重視する語であり、いくぶんか宗教的な意味を含む語であったといえよう。思うに儒教は本来が士大夫(したいふ)(治者階級・知識人)の学とされており、その意味で儒家・儒学と称することがふさわしかったのである。そしてこの点は日本でも同様であった。
 ところが明治以後の日本では、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に儒教と称するようになった。おそらくは世界史的視野にたってキリスト教、仏教、イスラム教などと並称する場合、やはり儒教とよぶことがもっとも便宜であったのであろう。儒教は宗教ではないが、その中国に果たしてきた役割からすると、欧米のキリスト教に匹敵するからである。[楠山春樹]

特色

儒教はひと口にいって「修己治人(しゅうこちじん)」(己(おのれ)を修めて人を治める、という意味の朱子のことば)の学である。修己とは自身において道徳的修養を積むこと、その意味で儒教は倫理の学である。しかしその修己は、自身のためであると同時に治人を目的とする。具体的には士大夫として人民を治めるための政治の学である。ところが儒教でいう政治とは、法律や刑罰で民を規律することではなく、道徳によって民を善導することにあり、そこでまず己を修めることが必須(ひっす)とされたのである。
 知徳の優れた人を「君子(くんし)」と称するが、君子はまた治者をも意味した。その反対は「小人(しょうじん)」であるが、被治者である小人には自身で修養する能力はなく、治者(君子)の教化をまって初めて道徳的たりうるとされる。さらに最高の知徳を備えた人を「聖人」と称するが、聖人とは同時に帝王として天下に君臨すべきものとされ、ここに聖人即王者という、世界に類をみない「聖王」の概念が成立する。最高の聖人である帝王(すなわち聖王)を頂点とし、士大夫はそれぞれに積み重ねた知識教養によってこれを輔翼(ほよく)する、かくて道徳政治(徳治)の全きことが期待される、というのがその理想であって、ここに倫理と政治との一体化がみいだされる。[楠山春樹]

主要な倫理説

根本は「仁(じん)」である。仁とは人に接する場合の心のあり方をいい、広範な内容を含んでいるが、しいていえば愛に近く、その実践にはとくに「忠恕(ちゅうじょ)」(真心と思いやり)が重視された。しかしその仁は、まず父母兄弟の近親から漸次他に及ぼすべきものとされ、「孝」を尽くすことは仁の第一歩、兄弟に対する「悌(てい)」がこれに次ぐとされる。儒教の仁はその意味でいわゆる人類愛とは区別されなければならない。一方、仁が拡大されて広く衆庶に及ぶとき、それは「仁政」となり、さらにその仁が天下を覆うということになれば、その人は聖王と称するにふさわしい。個人的な心情をいうかにみえる仁は、同時に治政の原理ともなるものであった。
 仁は本来人の心情にかかわるものであることから、ともすれば情に流されて発露を誤るおそれがあった。それを抑えて適宜ならしめるのが「義」である。「仁義」を並称することは孟子(もうし)(孟軻(もうか))に始まり、その後、儒教の徳目を代表するものとなっている。仁・義に礼・智を加えて「四徳」と称し、それに信を加えて「五常」という。「礼」とは本来は礼儀作法の形式であって、社会的な秩序を維持し、また対人関係を円滑にするための規範慣習である。したがって、礼の形式を学ぶことは、儒家にとってたいせつな教科であるが、一方内面的には礼を当然のこととして実行する謙虚な心情を養うことが必要とされた。四徳五常としての礼は主としてその意味である。「知」は一般的には「徳」と対照される概念であるが、儒教ではこれを単なる知識とせず、事の是非善悪を判断する能力であると考え、その意味で徳目に数える。「信」は、忠信と連称する場合、真心を意味する「忠」がことばとして表れたものをいうが、五常にいう信は、両者をあわせてうそ偽りのない心のあり方、態度をいう。一方、信は人に対してばかりでなく、天地神明に誓うという面をもつが、信と同義である「誠(まこと)」は、こうした観点から天の道とされ、また天地間にみなぎる正気として形而上(けいじじょう)的な原理ともなっている。
 儒教ではまた「五倫」をいう。五倫とは基本的な対人関係を5種に整理して述べるものであって、父子の親、君臣の義、長幼の序、夫婦の別、朋友(ほうゆう)の信がそれである。[楠山春樹]

歴史的変遷

儒教の歴史は、漢の武帝時代における国教化の以前(原始儒教)と以後とに大別されるが、さらに国教化以後の儒教は各時代の特色に留意して、漢の武帝時代から唐末に至る時期(漢唐訓詁(くんこ)学)、宋(そう)初から明(みん)末に至る時期(宋明性理学)、清(しん)一代(清朝考証学)に三分して考えることが通例である。[楠山春樹]
原始儒教
春秋末期の乱世に小国魯(ろ)に生を受けた孔子は、外には礼によって失われた秩序を回復し、内には人に接するに仁をもってすべきことを説いた。また古代的、迷信的な天の重圧から人を解放し、一種の合理的、人間中心的な思考を推進した。こうした彼の思想に共鳴する人士がその門に集まって、ここに儒教教団が発生する。孔子の死後門人は各地に分散して教勢を拡大していったが、それに刺激されて墨家(ぼくか)・道家(どうか)等の諸子百家が継起する。儒家は最有力学派として百家に対抗しつつ、あるいはその影響を被りながら、しだいに展開を遂げていった。
 この間に傑出したのは孟子と荀子(じゅんし)である。孟子は性善説によって孔子の倫理説を内面的に深め、また王道政治を唱えて孔子のいう徳治に具体案を示した。次に荀子は、人は生まれつきのままでは善になりえないとして礼(社会的規範)による拘束を重視し、また客観的な教学の整備に努めた。『書経』『詩経』をはじめとする経書は、荀子を前後するころに五経のすべてが出そろうが、経書の学習を必須として教学の柱とすることは荀子に始まる。[楠山春樹]
漢唐訓詁学(伝統的儒教)
儒教の国教化は前136年(建元5)に五経博士の置かれたときをもって始めとするが、当時の儒教はすでに五経の学習を中心とするものとなっていた。いったい儒教はつねに先王の道を称し、堯舜禹湯(ぎょうしゅんうとう)文武を聖王として仰いでいたが、発達した儒教は、孔子の教えの淵源(えんげん)はまさにこれらの聖王にあるとし、五経こそは直接に先王の道を記すものであると考えたことから、孔子の言行録である『論語』よりも五経を尊重するようになったのである。しかしもともと難解である五経を前にして、これ以後の儒教は、五経の訓詁学(注釈学)、すなわち「経学」として展開することとなった。
 国教化した当初の前漢には「今文(きんぶん)経学」が栄えた。天人相関説にたち、経文に神秘的解釈を加え、漢王朝の出現を正当化する政治色濃厚な経学である。後漢(ごかん)に入ると、これと並行して文字のもつ意味に留意する「古文経学」がおこり、訓詁学としての経学の基礎が築かれた。両漢400年間は、王朝の権威を背景として経学がもっとも栄えた時期である。しかし魏晋(ぎしん)南北朝時代になると、老荘思想や外来の仏教が盛行して儒教は衰退し、経学にも老荘的注釈が入り込む。唐代に入ると、南北朝に二分されていた経学を統一するために『五経正義』が編纂(へんさん)されるが、またそれは科挙(かきょ)の試験に備えて経義を国家的に統一するためでもあった。かくて儒教は、経学としても固定されて活力を失い、利禄(りろく)のための学に堕していった。当時において思想界の主流をなしたのは大乗(だいじょう)仏教の哲学だったのである。[楠山春樹]
宋明性理学(新儒教)
宋代に入ると儒教の現状に対する反省から革新的な気運を生じた。北宋に始まり南宋の朱熹(しゅき)(朱子(しゅし))によって完成する宋学(朱子学)がそれであって、五経にかわって四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸(ちゅうよう)』)を尊重し、倫理学としての本来性を取り戻す一方、それを宇宙論的体系のなかに位置づけるものである。天地万物の根元は理である。理は純粋至善であって、人は本性としてその理をもつが(性即理)、同時に肉体を形成するについては物質的な気を交える。人は気によってもたらされる自己の欲望(人欲)を抑え、本性(天理)に立ち返らねばならない。その方法としては居敬(きょけい)(心を純粋専一の状態に保つ)と窮理(きゅうり)(事物について理を窮める。具体的には読書問学)の両面が必要である、というのである。朱子学は初め異端視されたが、士大夫の支持を得て隆盛に赴き、元代には伝統的儒教にかわって国教となり、以後清末にまで及んでいる。
 明代になると王陽明(王守仁)の心学がおこり、官学化して精気を失った朱子学をしのぐ活況を呈した。心即理を説き、理は外にあるのではなくてわが心が理である、という徹底した唯心(ゆいしん)主義の論である。しかしその末流には、極端に走って読書を廃し、経書の権威を否定する風潮すら生じた。[楠山春樹]
清朝考証学
明末清初には陽明学末流を批判することから、宋明の新儒教を空疎として退け、訓詁学への復帰が叫ばれるようになった。宋学は依然として官学の位置を保持し続けるが、学術の主流は漢学に移ったのである。それは後漢時代の古文経学を基礎として、文字(もんじ)学、音韻(おんいん)学、歴史学、地理学等々の諸学を駆使し、実事求是(じつじきゅうぜ)(事実によって真理を求める)を志向するものであって、これを「考証学」と称する。しかし清学の関心はやがて前漢の今文経学に移っていく。ところが今文経学はもともと政治色の強いものであったことから、おりしも清末の動乱期に際会して、その学は諸種の改革運動に理論的根拠を提供するものとなった。清朝公羊(くよう)学がそれである。[楠山春樹]
現代中国と儒教
清朝が滅んで中華民国が出現した(1912)ことにより、聖王(天子)を頂点とする儒教の政治学はもはや存在の意義を失い、その倫理説もまた自由平等を説く時代思潮の前に論難を浴びざるをえないこととなった。しかし権力者の側にはなおも儒教を温存しようとする動向があり、また孝倫理を中心とする儒教道徳は民衆の間に根強く生き残っていた。中華民国はやがて中華人民共和国となり(1949)、儒教批判の風潮は一段と強まった。とくに1974年における批林(ひりん)批孔の運動においてもっとも急激であった。しかし孔子の名がこうした政治運動に利用されることは、現在なおその影響の根強さを示すともいえよう。批孔運動が一過した現在、山東(さんとう/シャントン)省曲阜(きょくふ/チュイフー)にある孔子廟(びょう)が修復され、一部には儒教を再評価する風潮すらみえる。しかし、それが過去における文化遺産としての評価にとどまるのか、あるいはそのなかにいくぶんとも現代的意義をみいだそうとするものであるのか、興味深い問題である。[楠山春樹]

日本における儒教

日本の儒教史は元寇(げんこう)(13世紀後半)のころを境にして、中国古代(漢・唐)儒教を受けた前期と、中国近世(宋(そう)・明(みん)・清(しん))儒教を受けた後期に時代区分される。[石田一良]
氏族国家と儒教
すでに早く4世紀の末、5世紀の初めころに、中国の古代儒教が伝来して、古来の神道(しんとう)倫理を補完して、氏族共同体を単位とする氏族国家のイデオロギーとなった。継体(けいたい)天皇の時代から欽明(きんめい)天皇のころにかけて(6世紀ころ)、朝廷が百済(くだら)に五経博士の交替派遣をしばしば請求したことは、儒教に対する古代国家の関心の強さを示している。[石田一良]
律令国家と儒教
さて聖徳太子の執政を経て大化改新、天武(てんむ)の改革、持統(じとう)・文武(もんむ)の新政に至るころ(7、8世紀)は、氏族社会を基礎に律令(りつりょう)的官僚機構を上積みする氏制律令国家の建設の進むときであった。その間、聖徳太子の制定した十二階の冠位には徳仁礼信義智(ち)の儒教の徳目の名称がつけられ、『十七条憲法』にも一君万民の儒教道徳が強く説かれていた。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、中国に留学した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)から「周孔の道」(王道政治の理念)を学んで改新の業を成就(じょうじゅ)し、律令国家実現の端緒を開いた。天武の改革を経て律令が施行せられて、徳をもって民を治め教えるという儒教の政教主義が政治の理念となり、大学に設置された明経道院(みょうぎょうどういん)では漢・唐の注疏(ちゅうそ)によって儒書が講ぜられた。しかし放伐を是認する注疏や『孟子(もうし)』は排除されていた。このころ神道の神孫為君の大王観の土台のうえに、儒教の有徳為君の天子観、仏教の十善為君の国王観を振り分けにのせた天皇観が成立した。つまり、儒教が神仏二教と連合して新しい律令国家のイデオロギーとなったのである。
 奈良時代から平安時代にかけて、このイデオロギー連合体は仏教と儒教にかける重みを変えながら継承されたが、摂関時代・院政時代に入ると、政治のうえにも個人生活のうえにも儒教の力が弱まり、大学も衰退していった。[石田一良]
武家幕府と禅儒
鎌倉時代に入ると、仏教においては戒律(倫理道徳を含む)を軽視する浄土(じょうど)教や天台本覚(ほんがく)思想が発達して、政権を分担した武士の道徳的要求に応ずるものがなかった。北条氏は中国から渡来した臨済(りんざい)禅僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、兀庵普寧(ごったんふねい)、大休宗休(たいきゅうそうきゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)らのもたらした新儒教(『孟子』を四書のうちに数える朱子(しゅし)学)に治世安民の道を求めた。『梅松論(ばいしょうろん)』は、すでに早く承久(じょうきゅう)の乱(1221)にあたって北条氏が『孟子』の放伐思想をもったというが、足利尊氏(あしかがたかうじ)を周の文王に擬して足利政権を天意にかなうものとたたえていることが注目される。
 臨済禅は中国より伝来当初から朱子学を伴ったが、室町時代に入ると、夢窓疎石(むそうそせき)は儒を禅の手段活弄(かつろう)と考え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)は禅の悟りは儒の中庸の徳を含むと説き、岐陽方秀(きようほうしゅう)はさらに進んで禅儒は体用(たいよう)不二で、禅の悟りが体、儒の中庸は用であると説いて、陽明学に似た思想を王陽明に先だって形成した。ついで南村梅軒(ばいけん)は禅儒の関係を逆転して、禅の修行を手段とし「真儒の位」(中庸体得の境地)に至り、民生の安定と社会の秩序をもたらすべしと説いて、新興戦国大名の領国統治のイデオローグとなった。
 一方、保守的な宮廷儒学の方面でも、一条兼良(かねら)は伝統的な漢・唐の古注に新注(朱子注)を加え、宮廷儒官の清原宣賢(のぶかた)らはこれを受けて家学に朱子色を強めていった。[石田一良]
徳川幕府と朱子学・陽明学
禅の枠組みのなかに取り入れられた朱子学をそのまま禅から取り出したのは、禅僧から還俗(げんぞく)した藤原惺窩(せいか)であり、禅の枠を外して朱子学を、純粋に、自由に、発展させたのは林羅山(らざん)であった。
 威富兼備を理想とした戦国大名は武家の治世安民の伝統的政治理想を継ぎ、をもって領国民の生活を安定させ、をもって領国内を秩序づけようとしていたので、陽明学風の儒学に共感して、南村梅軒や藤原惺窩らの説を歓迎したが、しかし、江戸時代(17世紀初以降)に入って封建秩序が安定し固定すると、陽明学が中国から伝来しても時すでに遅く、既存の体制を批判する反体制的機能を果たして、幕府諸藩の弾圧を受けた。中江藤樹(なかえとうじゅ)は仕官をやめて故郷の近江(おうみ)に隠棲(いんせい)し、熊沢蕃山(ばんざん)は幕府に疎まれ岡山を追われて関東に閉居し、大塩平八郎は幕府に叛(はん)して大坂で敗死し、西郷隆盛(たかもり)らは幕末に倒幕の運動を起こしている。陽明学が断続的に存続したのに対して、朱子学は江戸時代を貫流する大流派となった。林羅山は幕府に仕えて林家(りんけ)の祖となり、元禄(げんろく)(1688~1704)・享保(きょうほう)(1716~36)ころには木下順庵(きのしたじゅんあん)、室鳩巣(むろきゅうそう)、寛政(かんせい)(1789~1801)のころには柴野栗山(しばのりつざん)らが出て幕府に仕えて林家を助け、幕府も林家の朱子学を「正学」と認めて幕臣に異学を禁じ、諸藩のこれに倣うことを求めた。[石田一良]
儒学の義理派と人情派
朱子学は、天が宇宙間の一切(いっさい)万物を創(つく)り(この天徳を元(げん)といい、人に宿って仁となる)、一切万物を支配する(この天徳を利といい、人に宿って義となる)、人は天の創造・主宰の働きを参賛すべしと説いた。ただし天は「懸空(けんくう)」(超越的人格神的)のものではなく、人と自然のうちに内在してのみ存在するから、人は眼前の君父らに仕える以外に天に仕える道はないと教えた。日本の朱子学徒はこの天の創造・主宰と人間の参賛を中国の朱子学者よりも強調して、朱子学をいわば「現世の宗教」として、大名領国の繁栄と秩序を維持する神学(イデオロギー)としたのである。一方、大名領下の被治者は、武士も商工民も農民も領主のに頼り領主のに服するとき、領国の繁栄と秩序が将来するという政治的仕組みを日常の生活で経験していた。したがっておのずと領国内の上下の生活に義理(義)と人情(なさけ)(仁)の徳が貫流し、それがまた意識せられていたのである。
 この義理と人情の徳をドラマツルギー(作劇法)の因素としたのが、儒教と世情に通じた近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)であった。近松が、武士は封建秩序を守って義理に厚く、町人は情に流れて義理を欠きやすいものと考えて、武士の義理堅さをテーマにして時代物を、町人の情もろさをテーマにして世話物(せわもの)をつくった。近松の時代物と世話物は江戸時代の生活の倫理、そのロゴス化の儒学思想の二つの流れを芸術的に表現したものであった。[石田一良]
朱子学と古学派
日本の朱子学の説く天の創造と主宰の両作用(元と利の徳)、人間の仁と義の両徳(愛と敬(けい)の心)のうち、天の主宰と人間の参賛(理、利‐義敬)に重きを置いて支配と服従の教えを説いたのが、自ら敬義と号する山崎闇斎(あんさい)であった。貝原益軒(かいばらえきけん)は、天の創造、領主の恩徳(気、元‐仁愛)を支配階級の側から町人や農民に教えた。一方、この朱子学の説く理の働きと敬義の徳を退け、気の働きと仁愛の徳を重んじて元禄京都町人の立場から封建的身分・秩序を超えて愛の共同体を実現しようとしたのが京都の町人学者の伊藤仁斎(じんさい)である。享保期の封建支配階層武士の立場から、朱子学の説く内在的天を退けて超越的人格神的天をあげ、天意を体して先王が礼楽(れいがく)を制定したように、江戸幕府も制度を厳しく樹(た)つべしと説いたのが荻生徂徠(おぎゅうそらい)であった。仁斎と徂徠に代表される、中国古代儒学の復興を標榜(ひょうぼう)する古学派は、マイナスの面で朱子学という背骨(バックボーン)に接合されて封建教学の骨格(ほねぐみ)を構成したといえる。
 さて、朱子学を享保期の町人の立場――つまり封建共同体の一員としての町人の身分的自覚に受け止めて(神道・仏教の思想を加味して)町人の教えに翻転したのが石田梅岩(梅巌)(ばいがん)の心学であった。[石田一良]
朱子学と江戸時代の儒学思想
朱子学はいわば江戸時代の儒教思想の背骨であった。これに儒学の諸流派がプラスの面、マイナスの面で結び付いて封建制度のイデオロギーの骨格を構築し、それに、朱子学の格物致知(かくぶつちち)による西洋自然科学の受容や朱子学の名分論に基づく尊皇運動(水戸学など)、中国清朝の儒教研究の影響を受けた折衷学派や考証学派の研究で肉づけがなされて、江戸時代の儒教思想が形成されたといってよかろう。[石田一良]
明治における朱子学の宗教性喪失
明治時代に入ると、儒教は文明開化期には旧封建思想として西洋流の啓蒙(けいもう)思想に抑圧されていたが、明治10年代から復活し始めた。しかし「現世の宗教」である朱子学は、その天の宗教性を天皇制に吸収されて、天皇家を宗家(そうけ)に仰ぐ大家族国家支持の「道徳」となってしまった。今日、日本の儒教研究者が、朱子学が宗教(ただし還俗(げんぞく)した現世の宗教)であったことを忘れて、元来(はじめから)、道徳の教えであったと決めてかかるのは、元田永孚(もとだながざね)、西村茂樹(しげき)、井上哲次郎ないしは旧帝国大学東洋哲学科などによる朱子学の近代化――つまり哲学化・倫理学化――の結果であると考えられる。[石田一良]
『宇野精一他編『講座東洋思想 第2巻 中国思想 儒家思想』(1967・東京大学出版会) ▽阿部吉雄編『中国哲学』(1964・明徳出版社) ▽島田虔次著『朱子学と陽明学』(岩波新書) ▽『儒教の実践道徳』(『津田左右吉全集 第18巻』所収・1967・岩波書店) ▽久木幸男著『大学寮と古代儒教』(1968・サイマル出版会) ▽足利衍述著『鎌倉室町時代之儒教』(1932・日本古典全集刊行会) ▽福島甲子三編『徳川公継宗七十年祝賀記念 近世日本の儒教』(1939・岩波書店)』

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世界大百科事典内の儒教の言及

【孔子批判】より

…中国,孔子および儒教に対する批判運動。前136年,漢の武帝が儒教を国定の教えとしていらい1911年に辛亥革命で清朝が滅亡するまで,儒教の祖である孔子は,中国における最高の人格として尊重されてきた。…

【中国】より

…日本の代表的知識人の言葉として,これはまことに奇怪千万といわねばならない。なぜなら,江戸時代の,否,明治中期ごろまでの書生たちにおいては常識中の常識であったごとく,〈人は万物の霊〉というのは儒教の古典のうちでも最もポピュラーな《書経》泰誓篇の言葉,そして〈天地の生むところ唯だ人を尊しとなす〉は,そのすぐ下に割りつけられた注釈の言葉にほかならぬからである。 さらにいま一つ例をあげるならば,井出孫六の小説《太陽の葬送》の中に,乃木将軍の殉死に対して〈儒教的な,あまりに儒教的なその死〉と批判的な感懐を述べたくだりがある。…

【天】より

…漢代のイデオローグ董仲舒(とうちゆうじよ)は,荀子の分離した天・人をふたたび結びつけ,天人相関説(政治のよしあしに対して天が感応して禍福をくだすとする説)をとなえ,墨家的な天を復活させた。歴代の儒教は,郊祀儀礼を整備して皇帝権力につかえる一方,この天人相関説を取り入れて権力の無制限な行使に制肘を加えた。儒教において天はまた,人間の道徳性の根源とされ,宋代の新儒教(朱子学)では人間に本来的に備わっている善性を〈天理〉と呼んだ。…

【日本】より

…日本は,政治的に中国に併合されず,しかも中国の文化を徹底的に摂取して消化することができた。 中国から直接に,または朝鮮半島を経て輸入された文化は,生産技術(金属,紙など),政治制度,文字,高度に洗練された信仰体系(仏教,儒教,道教)などである。それよりも早く,あるいは同時に南方海洋諸民族の文化の影響が及んだことも確かである。…

【ベトナム】より

…中国文化の影響は,社会組織,信仰と儀礼,風俗習慣,さらには,文学,美術,音楽,演劇など芸術の諸分野に及んだが,なかでも,中国を範とした法制と効率的な官人支配体系の両者は,ベトナム社会形成のための諸制度の整備を促した。また,儒教を思想の中核とする漢字文化への傾倒は,〈士〉(官吏)を中心とするバンタン(文紳。読書人階層)の台頭を招いた。…

※「儒教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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