中国の代表的思想。春秋時代末期の孔子(こうし)(孔丘)に始まり、戦国時代には諸子百家(しょしひゃっか)の一つであったが、漢(かん)の武帝(ぶてい)の紀元前136年(建元5)に国教となり、それ以後清(しん)朝の崩壊に至るまで歴代朝廷の支持を得、政治権力と一体となって中国の社会・文化の全般を支配してきた。また漢字文化圏とよばれる日本、朝鮮半島、東南アジア諸地域にも伝わり、大きな影響を与えている。
同類の語として儒学・儒家があるが、中国では儒教の語はあまり用いられず、学派を意味する儒家、その学問をいう儒学の語によってこれを示すことが一般的である。儒教の語は、外来の仏教に対して300年ごろに生じたものであるらしく、後世に至るまで主として儒仏道三教を並称するような場合に使用されていた。儒家・儒学に対していえば、儒教は教化の面を重視する語であり、いくぶんか宗教的な意味を含む語であったといえよう。思うに儒教は本来が士大夫(したいふ)(治者階級・知識人)の学とされており、その意味で儒家・儒学と称することがふさわしかったのである。そしてこの点は日本でも同様であった。
ところが明治以後の日本では、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に儒教と称するようになった。おそらくは世界史的視野にたってキリスト教、仏教、イスラム教などと並称する場合、やはり儒教とよぶことがもっとも便宜であったのであろう。儒教は宗教ではないが、その中国に果たしてきた役割からすると、欧米のキリスト教に匹敵するからである。
[楠山春樹]
儒教はひと口にいって「修己治人(しゅうこちじん)」(己(おのれ)を修めて人を治める、という意味の朱子のことば)の学である。修己とは自身において道徳的修養を積むこと、その意味で儒教は倫理の学である。しかしその修己は、自身のためであると同時に治人を目的とする。具体的には士大夫として人民を治めるための政治の学である。ところが儒教でいう政治とは、法律や刑罰で民を規律することではなく、道徳によって民を善導することにあり、そこでまず己を修めることが必須(ひっす)とされたのである。
知徳の優れた人を「君子(くんし)」と称するが、君子はまた治者をも意味した。その反対は「小人(しょうじん)」であるが、被治者である小人には自身で修養する能力はなく、治者(君子)の教化をまって初めて道徳的たりうるとされる。さらに最高の知徳を備えた人を「聖人」と称するが、聖人とは同時に帝王として天下に君臨すべきものとされ、ここに聖人即王者という、世界に類をみない「聖王」の概念が成立する。最高の聖人である帝王(すなわち聖王)を頂点とし、士大夫はそれぞれに積み重ねた知識教養によってこれを輔翼(ほよく)する、かくて道徳政治(徳治)の全きことが期待される、というのがその理想であって、ここに倫理と政治との一体化がみいだされる。
[楠山春樹]
根本は「仁(じん)」である。仁とは人に接する場合の心のあり方をいい、広範な内容を含んでいるが、しいていえば愛に近く、その実践にはとくに「忠恕(ちゅうじょ)」(真心と思いやり)が重視された。しかしその仁は、まず父母兄弟の近親から漸次他に及ぼすべきものとされ、「孝」を尽くすことは仁の第一歩、兄弟に対する「悌(てい)」がこれに次ぐとされる。儒教の仁はその意味でいわゆる人類愛とは区別されなければならない。一方、仁が拡大されて広く衆庶に及ぶとき、それは「仁政」となり、さらにその仁が天下を覆うということになれば、その人は聖王と称するにふさわしい。個人的な心情をいうかにみえる仁は、同時に治政の原理ともなるものであった。
仁は本来人の心情にかかわるものであることから、ともすれば情に流されて発露を誤るおそれがあった。それを抑えて適宜ならしめるのが「義」である。「仁義」を並称することは孟子(もうし)(孟軻(もうか))に始まり、その後、儒教の徳目を代表するものとなっている。仁・義に礼・智を加えて「四徳」と称し、それに信を加えて「五常」という。「礼」とは本来は礼儀作法の形式であって、社会的な秩序を維持し、また対人関係を円滑にするための規範慣習である。したがって、礼の形式を学ぶことは、儒家にとってたいせつな教科であるが、一方内面的には礼を当然のこととして実行する謙虚な心情を養うことが必要とされた。四徳五常としての礼は主としてその意味である。「知」は一般的には「徳」と対照される概念であるが、儒教ではこれを単なる知識とせず、事の是非善悪を判断する能力であると考え、その意味で徳目に数える。「信」は、忠信と連称する場合、真心を意味する「忠」がことばとして表れたものをいうが、五常にいう信は、両者をあわせてうそ偽りのない心のあり方、態度をいう。一方、信は人に対してばかりでなく、天地神明に誓うという面をもつが、信と同義である「誠(まこと)」は、こうした観点から天の道とされ、また天地間にみなぎる正気として形而上(けいじじょう)的な原理ともなっている。
儒教ではまた「五倫」をいう。五倫とは基本的な対人関係を5種に整理して述べるものであって、父子の親、君臣の義、長幼の序、夫婦の別、朋友(ほうゆう)の信がそれである。
[楠山春樹]
儒教の歴史は、漢の武帝時代における国教化の以前(原始儒教)と以後とに大別されるが、さらに国教化以後の儒教は各時代の特色に留意して、漢の武帝時代から唐末に至る時期(漢唐訓詁(くんこ)学)、宋(そう)初から明(みん)末に至る時期(宋明性理学)、清(しん)一代(清朝考証学)に三分して考えることが通例である。
[楠山春樹]
春秋末期の乱世に小国魯(ろ)に生を受けた孔子は、外には礼によって失われた秩序を回復し、内には人に接するに仁をもってすべきことを説いた。また古代的、迷信的な天の重圧から人を解放し、一種の合理的、人間中心的な思考を推進した。こうした彼の思想に共鳴する人士がその門に集まって、ここに儒教教団が発生する。孔子の死後門人は各地に分散して教勢を拡大していったが、それに刺激されて墨家(ぼくか)・道家(どうか)等の諸子百家が継起する。儒家は最有力学派として百家に対抗しつつ、あるいはその影響を被りながら、しだいに展開を遂げていった。
この間に傑出したのは孟子と荀子(じゅんし)である。孟子は性善説によって孔子の倫理説を内面的に深め、また王道政治を唱えて孔子のいう徳治に具体案を示した。次に荀子は、人は生まれつきのままでは善になりえないとして礼(社会的規範)による拘束を重視し、また客観的な教学の整備に努めた。『書経』『詩経』をはじめとする経書は、荀子を前後するころに五経のすべてが出そろうが、経書の学習を必須として教学の柱とすることは荀子に始まる。
[楠山春樹]
儒教の国教化は前136年(建元5)に五経博士の置かれたときをもって始めとするが、当時の儒教はすでに五経の学習を中心とするものとなっていた。いったい儒教はつねに先王の道を称し、堯舜禹湯(ぎょうしゅんうとう)文武を聖王として仰いでいたが、発達した儒教は、孔子の教えの淵源(えんげん)はまさにこれらの聖王にあるとし、五経こそは直接に先王の道を記すものであると考えたことから、孔子の言行録である『論語』よりも五経を尊重するようになったのである。しかしもともと難解である五経を前にして、これ以後の儒教は、五経の訓詁学(注釈学)、すなわち「経学」として展開することとなった。
国教化した当初の前漢には「今文(きんぶん)経学」が栄えた。天人相関説にたち、経文に神秘的解釈を加え、漢王朝の出現を正当化する政治色濃厚な経学である。後漢(ごかん)に入ると、これと並行して文字のもつ意味に留意する「古文経学」がおこり、訓詁学としての経学の基礎が築かれた。両漢400年間は、王朝の権威を背景として経学がもっとも栄えた時期である。しかし魏晋(ぎしん)南北朝時代になると、老荘思想や外来の仏教が盛行して儒教は衰退し、経学にも老荘的注釈が入り込む。唐代に入ると、南北朝に二分されていた経学を統一するために『五経正義』が編纂(へんさん)されるが、またそれは科挙(かきょ)の試験に備えて経義を国家的に統一するためでもあった。かくて儒教は、経学としても固定されて活力を失い、利禄(りろく)のための学に堕していった。当時において思想界の主流をなしたのは大乗(だいじょう)仏教の哲学だったのである。
[楠山春樹]
宋代に入ると儒教の現状に対する反省から革新的な気運を生じた。北宋に始まり南宋の朱熹(しゅき)(朱子(しゅし))によって完成する宋学(朱子学)がそれであって、五経にかわって四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸(ちゅうよう)』)を尊重し、倫理学としての本来性を取り戻す一方、それを宇宙論的体系のなかに位置づけるものである。天地万物の根元は理である。理は純粋至善であって、人は本性としてその理をもつが(性即理)、同時に肉体を形成するについては物質的な気を交える。人は気によってもたらされる自己の欲望(人欲)を抑え、本性(天理)に立ち返らねばならない。その方法としては居敬(きょけい)(心を純粋専一の状態に保つ)と窮理(きゅうり)(事物について理を窮める。具体的には読書問学)の両面が必要である、というのである。朱子学は初め異端視されたが、士大夫の支持を得て隆盛に赴き、元代には伝統的儒教にかわって国教となり、以後清末にまで及んでいる。
明代になると王陽明(王守仁)の心学がおこり、官学化して精気を失った朱子学をしのぐ活況を呈した。心即理を説き、理は外にあるのではなくてわが心が理である、という徹底した唯心(ゆいしん)主義の論である。しかしその末流には、極端に走って読書を廃し、経書の権威を否定する風潮すら生じた。
[楠山春樹]
明末清初には陽明学末流を批判することから、宋明の新儒教を空疎として退け、訓詁学への復帰が叫ばれるようになった。宋学は依然として官学の位置を保持し続けるが、学術の主流は漢学に移ったのである。それは後漢時代の古文経学を基礎として、文字(もんじ)学、音韻(おんいん)学、歴史学、地理学等々の諸学を駆使し、実事求是(じつじきゅうぜ)(事実によって真理を求める)を志向するものであって、これを「考証学」と称する。しかし清学の関心はやがて前漢の今文経学に移っていく。ところが今文経学はもともと政治色の強いものであったことから、おりしも清末の動乱期に際会して、その学は諸種の改革運動に理論的根拠を提供するものとなった。清朝公羊(くよう)学がそれである。
[楠山春樹]
清朝が滅んで中華民国が出現した(1912)ことにより、聖王(天子)を頂点とする儒教の政治学はもはや存在の意義を失い、その倫理説もまた自由平等を説く時代思潮の前に論難を浴びざるをえないこととなった。しかし権力者の側にはなおも儒教を温存しようとする動向があり、また孝倫理を中心とする儒教道徳は民衆の間に根強く生き残っていた。中華民国はやがて中華人民共和国となり(1949)、儒教批判の風潮は一段と強まった。とくに1974年における批林(ひりん)批孔の運動においてもっとも急激であった。しかし孔子の名がこうした政治運動に利用されることは、現在なおその影響の根強さを示すともいえよう。批孔運動が一過した現在、山東(さんとう/シャントン)省曲阜(きょくふ/チュイフー)にある孔子廟(びょう)が修復され、一部には儒教を再評価する風潮すらみえる。しかし、それが過去における文化遺産としての評価にとどまるのか、あるいはそのなかにいくぶんとも現代的意義をみいだそうとするものであるのか、興味深い問題である。
[楠山春樹]
日本の儒教史は元寇(げんこう)(13世紀後半)のころを境にして、中国古代(漢・唐)儒教を受けた前期と、中国近世(宋(そう)・明(みん)・清(しん))儒教を受けた後期に時代区分される。
[石田一良]
すでに早く4世紀の末、5世紀の初めころに、中国の古代儒教が伝来して、古来の神道(しんとう)倫理を補完して、氏族共同体を単位とする氏族国家のイデオロギーとなった。継体(けいたい)天皇の時代から欽明(きんめい)天皇のころにかけて(6世紀ころ)、朝廷が百済(くだら)に五経博士の交替派遣をしばしば請求したことは、儒教に対する古代国家の関心の強さを示している。
[石田一良]
さて聖徳太子の執政を経て大化改新、天武(てんむ)の改革、持統(じとう)・文武(もんむ)の新政に至るころ(7、8世紀)は、氏族社会を基礎に律令(りつりょう)的官僚機構を上積みする氏制律令国家の建設の進むときであった。その間、聖徳太子の制定した十二階の冠位には徳仁礼信義智(ち)の儒教の徳目の名称がつけられ、『十七条憲法』にも一君万民の儒教道徳が強く説かれていた。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、中国に留学した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)から「周孔の道」(王道政治の理念)を学んで改新の業を成就(じょうじゅ)し、律令国家実現の端緒を開いた。天武の改革を経て律令が施行せられて、徳をもって民を治め教えるという儒教の政教主義が政治の理念となり、大学に設置された明経道院(みょうぎょうどういん)では漢・唐の注疏(ちゅうそ)によって儒書が講ぜられた。しかし放伐を是認する注疏や『孟子(もうし)』は排除されていた。このころ神道の神孫為君の大王観の土台のうえに、儒教の有徳為君の天子観、仏教の十善為君の国王観を振り分けにのせた天皇観が成立した。つまり、儒教が神仏二教と連合して新しい律令国家のイデオロギーとなったのである。
奈良時代から平安時代にかけて、このイデオロギー連合体は仏教と儒教にかける重みを変えながら継承されたが、摂関時代・院政時代に入ると、政治のうえにも個人生活のうえにも儒教の力が弱まり、大学も衰退していった。
[石田一良]
鎌倉時代に入ると、仏教においては戒律(倫理道徳を含む)を軽視する浄土(じょうど)教や天台本覚(ほんがく)思想が発達して、政権を分担した武士の道徳的要求に応ずるものがなかった。北条氏は中国から渡来した臨済(りんざい)禅僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、兀庵普寧(ごったんふねい)、大休宗休(たいきゅうそうきゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)らのもたらした新儒教(『孟子』を四書のうちに数える朱子(しゅし)学)に治世安民の道を求めた。『梅松論(ばいしょうろん)』は、すでに早く承久(じょうきゅう)の乱(1221)にあたって北条氏が『孟子』の放伐思想をもったというが、足利尊氏(あしかがたかうじ)を周の文王に擬して足利政権を天意にかなうものとたたえていることが注目される。
臨済禅は中国より伝来当初から朱子学を伴ったが、室町時代に入ると、夢窓疎石(むそうそせき)は儒を禅の手段活弄(かつろう)と考え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)は禅の悟りは儒の中庸の徳を含むと説き、岐陽方秀(きようほうしゅう)はさらに進んで禅儒は体用(たいよう)不二で、禅の悟りが体、儒の中庸は用であると説いて、陽明学に似た思想を王陽明に先だって形成した。ついで南村梅軒(ばいけん)は禅儒の関係を逆転して、禅の修行を手段とし「真儒の位」(中庸体得の境地)に至り、民生の安定と社会の秩序をもたらすべしと説いて、新興戦国大名の領国統治のイデオローグとなった。
一方、保守的な宮廷儒学の方面でも、一条兼良(かねら)は伝統的な漢・唐の古注に新注(朱子注)を加え、宮廷儒官の清原宣賢(のぶかた)らはこれを受けて家学に朱子色を強めていった。
[石田一良]
禅の枠組みのなかに取り入れられた朱子学をそのまま禅から取り出したのは、禅僧から還俗(げんぞく)した藤原惺窩(せいか)であり、禅の枠を外して朱子学を、純粋に、自由に、発展させたのは林羅山(らざん)であった。
威富兼備を理想とした戦国大名は武家の治世安民の伝統的政治理想を継ぎ、富をもって領国民の生活を安定させ、威をもって領国内を秩序づけようとしていたので、陽明学風の儒学に共感して、南村梅軒や藤原惺窩らの説を歓迎したが、しかし、江戸時代(17世紀初以降)に入って封建秩序が安定し固定すると、陽明学が中国から伝来しても時すでに遅く、既存の体制を批判する反体制的機能を果たして、幕府諸藩の弾圧を受けた。中江藤樹(なかえとうじゅ)は仕官をやめて故郷の近江(おうみ)に隠棲(いんせい)し、熊沢蕃山(ばんざん)は幕府に疎まれ岡山を追われて関東に閉居し、大塩平八郎は幕府に叛(はん)して大坂で敗死し、西郷隆盛(たかもり)らは幕末に倒幕の運動を起こしている。陽明学が断続的に存続したのに対して、朱子学は江戸時代を貫流する大流派となった。林羅山は幕府に仕えて林家(りんけ)の祖となり、元禄(げんろく)(1688~1704)・享保(きょうほう)(1716~36)ころには木下順庵(きのしたじゅんあん)、室鳩巣(むろきゅうそう)、寛政(かんせい)(1789~1801)のころには柴野栗山(しばのりつざん)らが出て幕府に仕えて林家を助け、幕府も林家の朱子学を「正学」と認めて幕臣に異学を禁じ、諸藩のこれに倣うことを求めた。
[石田一良]
朱子学は、天が宇宙間の一切(いっさい)万物を創(つく)り(この天徳を元(げん)といい、人に宿って仁となる)、一切万物を支配する(この天徳を利といい、人に宿って義となる)、人は天の創造・主宰の働きを参賛すべしと説いた。ただし天は「懸空(けんくう)」(超越的人格神的)のものではなく、人と自然のうちに内在してのみ存在するから、人は眼前の君父らに仕える以外に天に仕える道はないと教えた。日本の朱子学徒はこの天の創造・主宰と人間の参賛を中国の朱子学者よりも強調して、朱子学をいわば「現世の宗教」として、大名領国の繁栄と秩序を維持する神学(イデオロギー)としたのである。一方、大名領下の被治者は、武士も商工民も農民も領主の恩に頼り領主の威に服するとき、領国の繁栄と秩序が将来するという政治的仕組みを日常の生活で経験していた。したがっておのずと領国内の上下の生活に義理(義)と人情(なさけ)(仁)の徳が貫流し、それがまた意識せられていたのである。
この義理と人情の徳をドラマツルギー(作劇法)の因素としたのが、儒教と世情に通じた近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)であった。近松が、武士は封建秩序を守って義理に厚く、町人は情に流れて義理を欠きやすいものと考えて、武士の義理堅さをテーマにして時代物を、町人の情もろさをテーマにして世話物(せわもの)をつくった。近松の時代物と世話物は江戸時代の生活の倫理、そのロゴス化の儒学思想の二つの流れを芸術的に表現したものであった。
[石田一良]
日本の朱子学の説く天の創造と主宰の両作用(元と利の徳)、人間の仁と義の両徳(愛と敬(けい)の心)のうち、天の主宰と人間の参賛(理、利‐義敬)に重きを置いて支配と服従の教えを説いたのが、自ら敬義と号する山崎闇斎(あんさい)であった。貝原益軒(かいばらえきけん)は、天の創造、領主の恩徳(気、元‐仁愛)を支配階級の側から町人や農民に教えた。一方、この朱子学の説く理の働きと敬義の徳を退け、気の働きと仁愛の徳を重んじて元禄京都町人の立場から封建的身分・秩序を超えて愛の共同体を実現しようとしたのが京都の町人学者の伊藤仁斎(じんさい)である。享保期の封建支配階層武士の立場から、朱子学の説く内在的天を退けて超越的人格神的天をあげ、天意を体して先王が礼楽(れいがく)を制定したように、江戸幕府も制度を厳しく樹(た)つべしと説いたのが荻生徂徠(おぎゅうそらい)であった。仁斎と徂徠に代表される、中国古代儒学の復興を標榜(ひょうぼう)する古学派は、マイナスの面で朱子学という背骨(バックボーン)に接合されて封建教学の骨格(ほねぐみ)を構成したといえる。
さて、朱子学を享保期の町人の立場――つまり封建共同体の一員としての町人の身分的自覚に受け止めて(神道・仏教の思想を加味して)町人の教えに翻転したのが石田梅岩(梅巌)(ばいがん)の心学であった。
[石田一良]
朱子学はいわば江戸時代の儒教思想の背骨であった。これに儒学の諸流派がプラスの面、マイナスの面で結び付いて封建制度のイデオロギーの骨格を構築し、それに、朱子学の格物致知(かくぶつちち)による西洋自然科学の受容や朱子学の名分論に基づく尊皇運動(水戸学など)、中国清朝の儒教研究の影響を受けた折衷学派や考証学派の研究で肉づけがなされて、江戸時代の儒教思想が形成されたといってよかろう。
[石田一良]
明治時代に入ると、儒教は文明開化期には旧封建思想として西洋流の啓蒙(けいもう)思想に抑圧されていたが、明治10年代から復活し始めた。しかし「現世の宗教」である朱子学は、その天の宗教性を天皇制に吸収されて、天皇家を宗家(そうけ)に仰ぐ大家族国家支持の「道徳」となってしまった。今日、日本の儒教研究者が、朱子学が宗教(ただし還俗(げんぞく)した現世の宗教)であったことを忘れて、元来(はじめから)、道徳の教えであったと決めてかかるのは、元田永孚(もとだながざね)、西村茂樹(しげき)、井上哲次郎ないしは旧帝国大学東洋哲学科などによる朱子学の近代化――つまり哲学化・倫理学化――の結果であると考えられる。
[石田一良]
『宇野精一他編『講座東洋思想 第2巻 中国思想Ⅰ 儒家思想』(1967・東京大学出版会)』▽『阿部吉雄編『中国哲学』(1964・明徳出版社)』▽『島田虔次著『朱子学と陽明学』(岩波新書)』▽『『儒教の実践道徳』(『津田左右吉全集 第18巻』所収・1967・岩波書店)』▽『久木幸男著『大学寮と古代儒教』(1968・サイマル出版会)』▽『足利衍述著『鎌倉室町時代之儒教』(1932・日本古典全集刊行会)』▽『福島甲子三編『徳川公継宗七十年祝賀記念 近世日本の儒教』(1939・岩波書店)』
中国で前漢の武帝が董仲舒(とうちゆうじよ)の献策で儒家の教説を基礎に正統教学として固定し,以後,清末までの王朝支配の体制教学となった思想。この儒教は,政治・文化の担い手であった士人(官人地主層)の主たる思想となり,その歴史・社会の変化に応じて,仏教・道教の教説を受容して教義を豊かにしたが,この儒教思想の史的展開がとりもなおさず前近代中国の思想史の主流をなす。したがって郡県制帝国の王朝体制が克服される近代化の過程で,儒教は思想・文化上の打倒目標となり批判された。なお,儒教は過去の朝鮮,ベトナム,日本の文化形成に深刻な影響を与え,とくに朱子学はこれらの地域の諸政権とむすんで長期に正統教学の位置を占めた。通常,儒教の学術面を〈儒学〉と称し,教学的性格をその開祖の名をとって孔子教Confucianismともよばれる。
儒教の基本的教義は,五倫五常,修己治人,天人合一,世俗的合理主義である。(1)五倫五常 三綱五倫(君臣・父子・夫婦と兄弟・朋友)の身分血縁的関係をあるべき人倫秩序とし,家族組織から政治体制まで貫く具体規定を備える。この人間関係を支える必要な道徳が,五常(仁・義・礼・智・信)であり,その修得のための人間論・意識論がくりかえされた。(2)修己治人 五常を修養し(修己),五倫秩序の実現につとめる(治人)不断の教化が,統治層士人(君子)の任務である。孔子は〈礼楽〉文化を先王周公の政教として祖述したが,〈礼〉は支配層氏族内部の階層秩序の規定,つまり敬天・崇祖の日常儀礼をともなう父系血縁集団の組織規定であって,いわば祭・政・教一致の秩序規定である。祖孫・父子の上下秩序を根幹として〈孝悌〉道徳によって維持しようとする。春秋後期は社会進展につれてこの一致体制の解体期にあたり,孔子は〈孝悌〉道徳を普遍化した〈仁〉の徳の実践を創唱しつつ,それを主軸に〈礼楽〉文化の再編を試みた。儒教はかくて〈礼〉の学習と〈仁〉徳の修養が〈修己〉の眼目となり,人民への教化主義が〈治人〉政治の特色となる。(3)天人合一 孟子,荀子を経た儒家思想は,〈仁〉〈礼〉すなわち内と外の世界をともに〈天〉(自然の理法)に根拠づけ,孟子は天与の賦性の実現を人の善とし,荀子は人のふまえる〈礼〉体系を〈天〉に合致すべきものとし,また国家統治の〈君臣の義〉(君主と臣僚の関係秩序)には法家系の〈刑名〉思想が浸透した秦・漢期以後,董仲舒系〈春秋〉学の〈天〉意にもとづく〈名分〉主義が定着した。〈礼教〉文化の理法化である。(4)世俗的合理主義 これらの教義は,政教的文明を包括する古聖の道として記録した〈経書〉(五経--易,書,詩,礼,春秋)に述べられ,漢代春秋学の〈名分〉主義と陰陽五行思想が加わって古代帝国的規模に適用され,《易伝》の宇宙論によって〈三綱〉的家父長制の観念は無限に拡大され,国教に成長した。この過程で,人道を中心に説く原始儒家思想は,神秘的呪術的な色彩を濃くし,漢・魏期の讖緯(しんい)説の流行はこの非合理的傾向を増幅した。
一定の〈礼教〉文化を保持するための現実処理の政術としては,王朝権力に依存して世俗的権威を帯び,かつ古聖の伝統を背景にした教学的権威をかね備えた。それ以後,士人の思想は〈経学〉(経典解釈学)の形式をとって展開した。歴史・社会の進展から〈礼教〉体制の危機がおそうとき,儒教は〈経書〉解釈の枠を広げ,仏教,道教などを自己の中に組み入れて〈礼教〉体制からの士人の離反を防いだ。宋代(10世紀)以後,隋・唐貴族制の解体に代わって科挙を足場に新興階級が官人支配層として登場してくると,統一王朝の国内・国際的な政治・経済上の緊張状態のなかで,国家主義的〈名分〉思想や正統論を展開させ,仏教・道教の流行による思想的危機感から,道義心を養い古聖の道を主体的に体得しようとする新儒学New Confucianism,すなわち宋学が生まれた。これは〈三綱五倫〉と〈五常〉とを〈理〉(天理)と宣言し,〈気〉による万物(自然と人)の差異を説き,家父長制的〈礼教〉体制を〈理気〉概念で体系づけ,洗練された天人合一思想,朱子学となって完成した。
朱子学が拠った〈四書〉(《大学》《中庸》《論語》《孟子》)は,在野の聖賢が議論を交わした政教集成であり,宋学によって天下統治の方策を各個人の責任と自発性において修得すべしと解釈した。そこには〈礼教〉体制下の士人が相対的自立性を強めつつ,積極主体的に〈礼教〉イデオローグとして果たすべき政治・社会の状況が反映されており,朱子学が正統教学に帰した理由がある。明・清期に君臨した朱子学は,封建秩序の内部矛盾の増大から,その補強として明代の陽明学が登場する。他方その陽明左派(王学左派)は,〈礼教〉体制の欺瞞(ぎまん)性をつき欲望肯定の〈童心〉説を出して儒教批判を行うが,本格的な儒教否定は,農民運動としてキリスト教に依拠した太平天国の思想であった。20世紀を迎える時期に,士人層より変法派,革命派がそれぞれ儒教批判を展開するが,その完全な克服には,辛亥革命(1911)後の五・四運動の〈孔家店打倒〉を経て(文学革命,孔子批判),現実を変革する人民解放の革命運動による体制変革を必要とした。
→中国思想
執筆者:戸川 芳郎
朝鮮の儒教は実に長い歴史をもつ。ただ朱子学以前の儒教(三国時代から高麗朝後期までの)は支配思想であった仏教と共存して存在できた儒教であり,哲学は仏教にゆだね,もっぱら詩文の才を政治・外交面で発揮した文詞・文学儒教であったので,朝鮮儒教の真面目は儒教が支配思想となった李朝500年に現れたといえる。
まず朝鮮における儒教の特徴は文臣優位の両班(ヤンバン)の儒教である。両班は李朝の支配階級(在地の中小地主層)で,力役や兵役免除の特権をもち,官職以外には農工商のいかなる職業にも従事しなかった。彼らは,初等教育機関である書堂から,ソウルでは四学,地方では郷校を経て,最高学府の成均館へと進んで科挙試に応じ,重要な文臣の地位を独占したが,このような教育機関で儒教=朱子学の教養と実業蔑視の感覚を身につけた。官職につけないとき,または政争や党争で野に下ったとき,彼らは郷里で強い支配力をもった。その基盤は農荘(自分たちの私有田)と書院(彼らの講学と結束の学問所)と郷約(儒教精神による郷村自治規約で彼らは役員となった)である。このように朝鮮儒教の担い手である両班=士大夫たちは農村に生活と社会基盤をもち,朝廷と農村・山林という幅広い活動舞台をもっていた。
第2に朝鮮の儒教は朱子学一尊,それも性理学=道学(理学)中心の朱子学であった。儒教は修己治人の学である以上,朱子学も経世済民的側面(治人)と精神陶冶的側面(修己)の2面をもつ。李朝でも初期の王朝体制づくりの時期に貢献したのは前者の経世治国的朱子学である(例えば,革新官僚派鄭道伝の《朝鮮経国典》や《経済文鑑》作成における活躍)。しかし王朝体制が整備されるや,代わって体制維持に奉仕する修己=道学の朱子学が尊重されるのは自然の勢いであった。この方面の朱子学は王朝交代直前に官を辞して郷里の慶尚道(嶺南)に帰った吉再が先鞭をつけていた。彼は新王朝の太常博士の職を二王に仕えずと拒絶し,講学と後進養成に専念した。かくて道義を重んじ,性理学=道学に心を注ぐ士林とよばれる新しいタイプの在野勢力が嶺南地方に形成された。吉再の学統(嶺南学統)から金宗直,金宏弼(きんこうひつ),趙光祖(朝鮮道学の祖),李退渓(〈朝鮮の朱子〉と称される)が生まれたのをみても,朝鮮性理学は士林の世界で深められ集大成されたことがわかる。この士林勢力が15世紀後半以降中央政界に引き出され,やがて士類の政治が定着すると,四七論弁などの理気論を中心とする非実際的な性理学が朝鮮朱子学全体の性格となった。これは,王朝が守成期に入って体制維持=体制教学的な朱子学が求められたことに対応する。なお陽明学は朝鮮性理学の全盛期(16世紀後半)に朝鮮に入った不運と,朱子の学説批判ですら斯文(しぶん)乱賊として死に追いやられるケースが出たほどの厳しさの中で,公然と信奉することは許されなかった。朱子学一尊といわれる所以である。
第3に朝鮮の儒教は党争の儒教であった。限られた官吏のポストを大勢の両班が争うのであるから権力争いは必至であったが,士林勢力が4度の士禍の試練を乗り超えて宣祖代に政権の主導権を握るにいたって,ついに政権を担当する士林間の対立抗争が始まった。これが李朝末まで300年にわたって続く党争である。東人・西人の2派の分裂から始まる党争は,曲折をへて東人が南人と北人に,西人が老論と少論に最終的に分かれ,四色党争といわれたが,党派の対立は学派や学説の対立(例えば,東人には李退渓派,西人には李栗谷派が多かったこと,礼訟における南人尹鐫(いんけい)と西人宋時烈の対立など)と結びついたので,党派に属する学者は自派の学説を固守しなければならず,党争儒教は朝鮮儒教の学問的発展を著しく阻害した。
第4に朝鮮の儒教は厳格な身分制度(両班,中人,常民,賤民)と家族制度(嫡庶の峻別ほか)を反映して,それらを律する礼制の実践と研究を重んずる礼学儒教であった。冠婚葬祭を中心に生活様式が儒式化され,両班家庭における《朱子家礼》や農民における〈郷約〉の励行を通して儒教は社会生活に深く根を下ろした。国家は《三綱行実図》をつくって孝子,忠臣,烈女の顕頌を行い,ハングル訳を付して庶民の教化に努めた。
しかし朝鮮儒教にも以上の性理学(道学),党争,礼学中心の儒教とはちがう新しい学風としての実学が18世紀に開花する。それは儒教本来の経世済民にたち返った学問ともいえる。この直接的契機は1600年を前後して被った日本と満州族の侵略(壬申・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)と丙子の乱)がもたらした自国の疲弊であった。実学は祖国を富強にすべく愛国的で開明的な両班知識人たちが提起した社会改革案=時務策を本領とするが,田制改革や社会制度・教育制度の改革から,生産技術の改良,運輸交通手段の整備を説く産業振興策(通商貿易策を含む),そのために必要な外国(中国と西洋)の先進的学問の摂取と研究(天文暦学,世界地理学ほか)および自国の実情把握のための朝鮮歴史・地理・言語研究までを含む広範囲な領域に及んだ。金堉(きんいく),柳馨遠(りゆうけいえん),李瀷(りよく),安鼎福,洪大容,朴趾源(ぼくしげん),朴斉家,丁若鏞(ていじやくよう)(茶山),金正喜らが代表的実学者である。彼らの多くは科挙のための学問を早くから断念し,実際的な学問研究に旺盛に取り組んだ百科全書家的なスケールの持主であった。老荘の自然哲学や陽明学の実際性が実質的に生かされ評価されたのも(洪大容),また,名も知られずに〈沢,四海に及び,功,万世に垂る〉学問をするのが真の〈士〉であると(儒)学者(ソンビ)精神がみごとに明文化されたのも(朴趾源〈原士〉),ともにこの学風の下であったことは注目に価する。実学はみずからの学問的実践によって過去の朝鮮儒教の否定面を映し出す鏡であり,その成果と朝鮮近代との接点をさぐることによって朝鮮儒教の力量をはかる要石的存在であるといえよう。
→実学
執筆者:小川 晴久
日本の儒教は4世紀ころから中国ならびに朝鮮を通じて受容され,近世に入ると日本独自の発展をとげ,日本の政治,経済,社会,文化,教育ならびに日本人の道徳意識や心性に少なからぬ影響を与えた。
まずその受容の沿革をしるすと,《日本書紀》によれば応神天皇の15年に百済から阿直岐(あちき),16年に王仁(わに)が来て《論語》10巻を伝えたのがその始まりとされている。その後,推古天皇の代に聖徳太子は儒教の精神を中核として仏教や法家思想をも含めて〈十七条憲法〉をつくり,さらに〈冠位十二階〉の制度を定め,南淵請安(みなぶちのしようあん),高向玄理(たかむくのくろまろ)や僧旻(みん)らの多くの留学生・留学僧を中国に派遣した。これらの人々のもたらした儒教や唐の制度についての知識や国際関係についての情報が大化改新の知的原動力となり,やがて日本は律令制度を採用,儒教の易姓革命の思想を受け入れることなく,天の思想にもとづいて天皇の地位を高めようとした。日本の古代国家は釈奠(せきてん)の礼を行い,大学寮制度をも採用し,中級の官吏を育成した。初めそこでは儒教を学ぶ明経道(みようぎようどう)が重んぜられたが,やがて文学的教養を重視する紀伝道にその地位を奪われ,その後大学寮自体も衰微し,少数の博士(はかせ)家が家学をかろうじて守るという状態になった。
中世に入って儒教受容のうえで変化が起こった。古代の儒教は漢学であったが,中世には新しく勃興した宋学(朱子学)が受容され始める。それをもたらしたのは元の侵略を逃れて渡来した中国の禅僧や,中国に学んだ五山の禅僧たちであった。彼らは禅儒一致の立場をとったが,初め禅が圧倒的に優位を占めた禅と儒教との関係はしだいに転倒し,中世末期には形は僧だが思想は儒者ともいうべき禅儒たちの出現をみるにいたった。他方博士家の一つ清原家の学問は宋学を受け入れることによって大いに進み,折衷的学風を脱することはできなかったが近世儒学を準備した。
近世儒学は漢宋折衷学や禅儒という不徹底な身分からの脱却を通じて成立した。その運動の先頭に立ったのが藤原惺窩(せいか)であり,その弟子の林羅山,松永尺五(せきご),羅山の批判者中江藤樹らがそれに続く。上にみたような状況にあったので近世の儒者は一般に仏教に対しては人倫を軽視するものとして批判的,その反面神道に対しては好意的であった。ところで近世初期の儒者は朱子学者羅山を除いてみな宋明新儒学の受容のうえに成立した心学,心法の学ともいうべき実践的性格の濃い儒教を奉じた。その後山崎闇斎の出現とともに,朱子学が本格的に理解され受容され始めた。闇斎の学風は朱熹→李退渓の系譜を引くもので,価値的観点の強い義理の学であり,その弟子浅見絅斎,佐藤直方を通じて崎門(きもん)学(闇斎学)派という朱子学の一派が形成されてその学統は今日に及んでいる。
ところで日本の儒学の特色の一つは朝鮮の場合のように一つの学派が圧倒的に支配するというのではなく,多様な学派が併存して相互に刺激しあったことにあって,朱子学派の中でも経験主義的性格の濃い貝原益軒,新井白石,ならびに中井竹山・履軒,山片蟠桃らの懐徳堂学派の人々があり,朱子学を批判した者には藤樹の弟子の熊沢蕃山や三輪執斎,大塩中斎(平八郎)らの陽明学派,ならびに陽明学をも含めて宋・明の新儒学を批判してただちに孔孟の学に帰ろうとした山鹿素行,伊藤仁斎・東涯,荻生徂徠,太宰春台らの古学派,ならびに多くの折衷学派,考証学派の人々を生み出している。
このうち最も独創的なのは古学派で,素行においては古学と士道との結合がなされ,仁斎においては《大学》《中庸》のテキスト批判によって朱子の四書中心主義の一角が崩され,《論語》を宇宙第一の書として孟子を通じての論語理解という立場に立って,仁は愛であるという考えの下に〈愛の人間学〉ともいうべき思想が形成された。伊藤仁斎・東涯の学を古義学(仁斎学)という。徂徠においては儒教は政治思想として再確認され,仁斎のように孔子を尊崇するのではなく,礼楽制度をつくった尭舜らの先王こそ聖人として崇拝されるべき人とされ,この先王たちの言行を記した古典を正確に理解することが儒教研究の課題とされた。徂徠は時代によってことばは変化するという前提に立って,古典を古典として当時のことばの意味を通じて理解する必要を説き,〈古文辞学〉を提唱した。彼が先王信仰を説いたのは,個人的教化の積み重ねでは社会の改革は不可能であるとの考えに立って,先王のつくった礼楽制度の下に知らず知らずのうちに人を〈化〉することの必要を感じていたからである。幕藩体制の危機感が彼をしてこのような制度的観点の儒教理解をとらせたといえよう。
徂徠によって江戸前期の内面的志向の儒教は後期の外面志向の儒学へと向きを変えた。制度論の面では徂徠の礼楽制度論は海保青陵の法家的制度論へと転じ,経世論の面では春台,青陵,本多利明らにみられるように現実主義的傾向はますます強くなり,考証学的面では太田錦城らによって研究の精密さがますます深まるとともに,国学者本居宣長にも大きな影響を与えた。このような状況の中で自然哲学者三浦梅園,社会思想家安藤昌益,思想史家富永仲基らの独創的な成果も生まれた。江戸後期の学芸の開花は,徂徠の直接・間接の影響なしには考えられない。
江戸後期の儒教をめぐる精神状況は〈寛政異学の禁〉で一変し,表面的には朱子学が支配的となったが,陽朱陰王の立場をとった佐藤一斎にみられるように社会的変動の中で陽明学は人々の心をとらえ始め,大塩中斎の蜂起となった。そこまでいかなくても政治的実践家たちは朱子学のほかに陽明学を学んだ(西郷隆盛,高杉晋作)。それとは違って西周のように徂徠学にひかれやがて洋学に向かう青年もいた。また朱子学にもとづいて西欧文明を排撃する者(大橋訥菴),西洋の自然科学を受け入れる者(佐久間象山)もいた。朱子学から出発して唐虞三代の治に帰ろうとする者もいた(横井小楠)。幕末維新の時期になると学派の区別は厳密な意味ではなくなり,人々は主体的に儒教と関わる傾向が強くなった。
近世儒学は,武士が世襲的に支配した封建社会の中で成立したために中国や朝鮮のように科挙制とは結びつかず,広く人材を政治の世界にくみ上げることに失敗し,また李朝朝鮮のように〈文公家礼〉を受容することがなく,社会の習俗の中に浸透することは困難であった。その反面,学問の自由が比較的保証されて人々はその好むところを選択することができ,その結果近世儒学は日本人の知的能力や道徳意識を高めることに寄与し,経世的問題解決の知的武器となった。儒教の有力な担い手が武士であったために,儒教と兵学の接合という独自のことも起こっている。他方,日本の儒教は近世全期を通じて封建社会のイデオロギーとしての機能を果たすとともに,心情道徳を重んじ,崎門学派以外においては〈敬〉よりも〈誠〉を心術のくふうの中心に置く傾向が強い。国家統民の面に関しては後期水戸学において〈忠孝一本〉の教義がつくられ,孝を教義の中核とする中国儒学からの大きな逸脱を示した。近代との関連では,儒教が洋学と接合するとか,儒教にもとづいて国際的自然法思想や天賦人権の思想が受容されるなど,幕末・維新の時期に一つの展開をみせている。これらは近世日本の社会や文化との関わりの中で形成された日本儒学の特色である。
以上は主として知識人や支配者に関わることであるが,儒者たちは仮名文字の文章で庶民教化に努力し,江戸後期になると庶民自身が庶民のための,儒教を核とする神儒仏の三教一致の心学思想を形成し(石田梅岩による石門心学),庶民の道徳意識の向上と致富の思想的基礎づけを行っている。
近世儒教は,湯島の昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所),各藩の藩校,多くの私塾,寺子(小)屋等の教育機関や出版物を通じて,儒者だけでなく,武士や一般の庶民を教育し,明治以後の国民飛躍の基礎をつくった。しかしながら儒教は基本的に封建社会と分かちがたく結びついた教説であったために,明治初頭の福沢諭吉,津田真道,西周らの啓蒙的知識人たちによって否定され,それが儒教に対する社会の基本的態度を決定した。しかし彼らの中には儒教とキリスト教とを結びつけようとしたり(中村敬宇),儒教を近代社会において存在理由をもつものとしようと努力する者(西村茂樹)もいた。一時儒教に対して否定的態度をとった政府も自由民権運動の台頭に伴って儒教に対する態度を変え,1890年には元田永孚や井上毅(こわし)によって儒教と西欧の近代的道徳とを接合,後期水戸学の国体思想によって枠づけして〈教育勅語〉がつくられて,国民教育の基本方針とされた。このような趨勢の中で学者たちのある者はドイツ哲学によって儒教を解釈し,国民道徳の基本としようとしたが,他のある者は考証学にもとづいて儒教を思想としてではなく学問として客観的に研究する道をとろうとした。他方民間では明治中期に東正堂によって雑誌《陽明学》が刊行されて陽明学の再興運動が行われ,陽明学は思想としては近代において最も大きな力をもつ儒教となった。また実業家の中には渋沢栄一のように儒教と士魂と近代資本主義とを結びつけようとした者もいたし,夏目漱石のような近代的作家でもその晩年には〈則天去私〉のことばを残している。昭和になって戦雲が濃くなったとき儒教にもとづく戦争協力の団体もつくられるなど,儒教と近代日本との関わりは複雑であった。
戦後の日本においては〈教育勅語〉は〈教育基本法〉によってとって代わられ,儒教は半ば忘れ去られているが,信義とか誠実というような儒教に由来する徳目は,今日の日本人においてもその心性の骨格をなしているといえよう。
執筆者:源 了圓
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儒学(儒家の学)。孔子の教えを奉じて君臣父子の分を正し,修身治国の道を説く,支配階級のための倫理学,政治哲学。漢の武帝のとき中国の正統的教学となった。漢代では経書(けいしょ)の整理と解釈が主として行われ(訓詁(くんこ)学),魏晋時代では老荘思想による注釈が行われた。唐代で経説の統一をみた。宋に至り訓詁章句の範囲から脱し,仏教教義の影響を受けて性理の学が起こり,それは朱熹(しゅき)によって大成された。明に至り王守仁(おうしゅじん)は知行合一説を立てたが,元・明を通じて多くは朱熹を宗とした。朱子学は日本,朝鮮にも官学として受容された。清代考証学のなかでは経書の文献学的研究が盛行し,一方公羊(くよう)学による儒教振興が叫ばれた。しかし,20世紀に入ると儒教は中国の封建制の象徴として批判の的となった。
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孔子を開祖とし,孟子や荀子(じゅんし)らによって形成された思想・教説。父子の親,君臣の義,夫婦の別,長幼の序,朋友の信の五つの社会関係における道徳=五倫と,仁・義・礼・智・信の五常を基本的な道徳とし,家族道徳から国家道徳までを含むが,その中心となるのは,修己と治人で,それを修めることを君子の道徳的義務とする。儒教は,中国では前漢の武帝のときに国教化されて以来,皇帝を中心とする王朝支配を正当化するイデオロギーとして君臨したため,近代社会形成期には封建教学として批判された。しかしその教えは,中国のみならず東アジア諸地域に大きな影響を与え,現在もこれらの地域の人々の日常的な生活意識や道徳意識に深く根をおろしている。
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…中国,孔子および儒教に対する批判運動。前136年,漢の武帝が儒教を国定の教えとしていらい1911年に辛亥革命で清朝が滅亡するまで,儒教の祖である孔子は,中国における最高の人格として尊重されてきた。…
…日本の代表的知識人の言葉として,これはまことに奇怪千万といわねばならない。なぜなら,江戸時代の,否,明治中期ごろまでの書生たちにおいては常識中の常識であったごとく,〈人は万物の霊〉というのは儒教の古典のうちでも最もポピュラーな《書経》泰誓篇の言葉,そして〈天地の生むところ唯だ人を尊しとなす〉は,そのすぐ下に割りつけられた注釈の言葉にほかならぬからである。 さらにいま一つ例をあげるならば,井出孫六の小説《太陽の葬送》の中に,乃木将軍の殉死に対して〈儒教的な,あまりに儒教的なその死〉と批判的な感懐を述べたくだりがある。…
…漢代のイデオローグ董仲舒(とうちゆうじよ)は,荀子の分離した天・人をふたたび結びつけ,天人相関説(政治のよしあしに対して天が感応して禍福をくだすとする説)をとなえ,墨家的な天を復活させた。歴代の儒教は,郊祀儀礼を整備して皇帝権力につかえる一方,この天人相関説を取り入れて権力の無制限な行使に制肘を加えた。儒教において天はまた,人間の道徳性の根源とされ,宋代の新儒教(朱子学)では人間に本来的に備わっている善性を〈天理〉と呼んだ。…
…日本は,政治的に中国に併合されず,しかも中国の文化を徹底的に摂取して消化することができた。 中国から直接に,または朝鮮半島を経て輸入された文化は,生産技術(金属,紙など),政治制度,文字,高度に洗練された信仰体系(仏教,儒教,道教)などである。それよりも早く,あるいは同時に南方海洋諸民族の文化の影響が及んだことも確かである。…
…中国文化の影響は,社会組織,信仰と儀礼,風俗習慣,さらには,文学,美術,音楽,演劇など芸術の諸分野に及んだが,なかでも,中国を範とした法制と効率的な官人支配体系の両者は,ベトナム社会形成のための諸制度の整備を促した。また,儒教を思想の中核とする漢字文化への傾倒は,〈士〉(官吏)を中心とするバンタン(文紳。読書人階層)の台頭を招いた。…
※「儒教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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