西俣村(読み)にしまたむら

日本歴史地名大系 「西俣村」の解説

西俣村
にしまたむら

[現在地名]郡山町西俣

郡山村の西、南流する甲突こうつき川と神之かみの川の上流域で、両川に挟まれた南北に細長い丘陵・平地に立地する。集落は北から平原ひらばる・西俣上・西俣中・西俣下がある。

〔中世〕

満家みついえ院に含まれ、天福元年(一二三三)一〇月二日の紀道房外二名連署契約状(比志島文書)に満家院内「西俣」とみえ、栄尊(比志島氏の祖)の母大御前(菩薩房、満家院司大蔵永平女)に当地や比志島ひしじま(現鹿児島市)など四ヵ所が与えられた。仁治元年(一二四〇)八月二二日、菩薩房と妹の生阿弥陀仏は出挙物の代として西俣のうち八世井浦の田畠を、誓尾ちかお六所権現(現智賀尾神社)の石谷阿闍梨隆慶に去り渡している(「比丘尼菩薩房・生阿弥陀仏連署田畠去状」同文書)。寛元五年(一二四七)三月一一日、栄尊は菩薩房から西俣を含む五ヵ所の名主職を正式に譲与された(「比丘尼菩薩房譲状」同文書)。ただし寛元二年には実質的な支配を任されており、和与の結果、満家院司税所義祐から知行を認められ(同年七月一五日「藤原義祐書状」同文書)、幕府の承認も得ていた(同年一二月一一日「関東御教書」同文書)。宝治元年(一二四七)九月日、栄尊は西俣を含む五ヵ所の地は万雑公事が免除されているにもかかわらず去年地頭代が賦課してきたとして、地頭島津忠時に安堵を訴え、承認されている。建長二年(一二五〇)栄尊は母比丘尼らの孝養のため僧侶や浪人を集めて荒山であった辺牟木へむき山を伐り開いて草堂一宇を建立することを発願し、一二月と翌年二月に万雑公事等の諸役の免除を地頭と領家に願出て認められている。


西俣村
にしまたむら

[現在地名]鹿屋市永野田町ながのだちよう名貫町なぬきちよう星塚町ほしづかちよう飯隈町いいくまちよう萩塚町はぎつかちよう池園町いけぞのちよう

大姶良おおあいら川中流の低地とその左岸に広がる鹿屋原かのやばる萩塚原はぎつかばるのシラス台地上に位置。北は鹿屋郷下名しもみよう村、西は横山よこやま村。大姶良郷のうち。大姶良川は西目にしめ川との合流点で東から北に流れを変え、東の姶良あいら(現吾平町)との境界をなし、名貫川と合流して肝属きもつき川に注ぐ。鹿屋原中央部の現名貫町・星塚町には谷間に集落がみられ、湧水を利用した名貫用水がある。


西俣村
にしまたむら

[現在地名]勝山市鹿谷しかだに北西俣きたにしまた

きようヶ岳の東裾に位置し、北は西光寺さいこうじ村・本郷ほんごう村、西南芦見あしみ坂を越えて皿谷さらだに(現足羽郡美山町)に至り、西はさる坂を越えて吉峰よしみね(現吉田郡上志比村)に至る。天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に、「西俣村信止名」とみえる。永禄一一年(一五六八)六月二日の高村存秀当知行目録(同文書)に「西俣村番頭名之内」「西俣村猿橋」「西俣村中田」などがみえ、当時西俣村は平泉へいせん寺と複雑な所領関係をもっていたことをうかがわせる。


西俣村
にしまたむら

[現在地名]大和町栗巣くりす

東俣村の西、栗巣川と古道ふるみち川の合流点西方の段丘山地にある。竹継たけつぐの薬師堂に保管されていた縄文期石製品は県指定重要文化財で、縄文後・晩期のもの。真宗大谷派応徳おうとく寺蔵の方便法身尊像裏書に大永二年(一五二二)四月九日「大榑□□寺門徒 濃州郡上郡山田庄栗栖郷西俣 願主釈□□」とある。正保郷帳では西股村とみえ、田方一八〇石余・畑方二一七石余。


西俣村
にしまたむら

[現在地名]小松市西俣町

かけはし川上流の西俣川沿いの山間にあり、北は岩上いわがみ村。南の上流部にみようだに、北の下流部に滝上たきがみ、その北に鳥越とりごえの集落がある。西又とも記される。正保郷帳では高二九八石余、田方八町一反余・畑方九町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では「奥遠山二十五ケ村之内」とあり、高二九二石、免三ツ三分、小物成は山役一貫八〇匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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