東俣村(読み)ひがしまたむら

日本歴史地名大系 「東俣村」の解説

東俣村
ひがしまたむら

[現在地名]郡山町東俣

油須木ゆすき村の東に位置し、東部三重みえ(四八六・一メートル)の西麓山地、中央部は南流する川田かわだ(甲突川支流)流域に開けた水田地帯、西部は標高二〇〇メートル前後の山地・丘陵地に立地する。東と西の山麓湯屋ゆや西上にしかみ・西下・白石しらいしなどの集落が散在する。

中世満家みついえ院に含まれた。建治三年(一二七七)五月一〇日の関東御教書(町田氏正統系譜)に「東俣」とみえ、満家院郡司税所義祐は郡司名内であるにもかかわらず地頭道仏(島津忠時)後家尼代宮である子長久が東俣の作毛を刈取ったと訴えている。この後、惣地頭島津氏の勢力に押され、税所氏の権限はしだいに減じていったと思われる。建武二年(一三三五)三月二七日、仏身ぶつしん寺領である満家院内郡名(郡司名の意か)東俣ほかの建武元年分年貢計五貫文が納入された(「良舜年貢請取状」比志島文書)


東俣村
ひがしまたむら

[現在地名]大和町古道ふるみち

上神路かみかんじ村の北、古道川沿いの段丘山地にある。北東村境に東俣峠がある。西は西俣村。東又・東股とも書く。正保郷帳では田方一四九石余・畑方一五四石余。寛文九年(一六六九)の内検名寄帳(松井文書)によれば耕地二四町余、家数五一、うち一町歩以上の高持五、五反―九反一四、四反以下三二。宝暦一〇年(一七六〇)の内検では三町八反余増加している(「村免定」和田文書)。村財政困窮により、貞享元年(一六八四)八幡本はちまんほん(現八幡町)徳兵衛から七石、宝暦三年藩から七一俵、同四年七月と一二月に母袋もたい村島崎浄円から二七両と七両をそれぞれ村借している(「借用証文」島崎文書)


東俣村
ひがしまたむら

[現在地名]浦川原村東俣

猿俣さるまた川支流東俣川の上流右岸に位置し、北は山を越え長坂ながさか(現中頸城郡吉川町)文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「河田喜三郎分東俣村 下」とあり、本納一五石六斗八升・縄高二四石二斗四升、家二軒・七人。杉坪すぎつぼ村から分岐した道が一山を越え当村まで続く。正保国絵図では高四五石余。天和三年郷帳では高五一石一斗余、うち山高一石・漆高四石七斗・青苧高二斗四升六合、反別田二町九反余・畑屋敷二町余・山林二町・青苧畑二畝余で、漆木四四〇本、家数七。安永九年(一七八〇)の新田検地高は一〇石二斗余。明和年間(一七六四―七二)と思われる山里蝋実穂村別帳(国立史料館蔵)では定納の山蝋実一升八合・里蝋穂一〇貫六五〇匁のほか、臨時納として里蝋穂七一〇匁を吉木よしき(現新井市)の蝋点所へ納める。


東俣村
ひがしまたむら

[現在地名]池田町東俣

魚見うおみ川の支流東俣川に沿った谷あいの村。角間かくま郷七ヵ村の中央部を占め、最も広域である。山道を南行し、大坂おおさかの難所を過ぎると南条郡宅良たくら(現今庄町)に至る。

村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高一八一・一石と記される。元和九年(一六二三)の再検地で三四石余りの村高出分があったといわれ(年不詳「各間七ケ村太閤様検地并内検地高由来」冨田家文書)元禄郷帳では二一五石余。「越前国名蹟考」には枝村として「西俣」が記されるが、明治末頃に廃村となった(池田町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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