西別府村(読み)にしべつぷむら

日本歴史地名大系 「西別府村」の解説

西別府村
にしべつぷむら

[現在地名]熊谷市西別府・別府

幡羅はらおし領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽くしびき台地寄居よりい面の北縁から利根川右岸の沖積扇状地にまたがり、北は下増田しもますだ村、東から南は東別府村。中世には別符べつぷ郷に含まれていた。田園簿に西別府村とみえ、田方一千二二三石余・畑方七九二石余、旗本兼松領。元禄(一六八八―一七〇四)以前に下増田村を分村(風土記稿)、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高一千四四七石余、旗本平井・設楽・羽太・大岡・石野の五家と医師数原家の相給。延享三年(一七四六)の上総久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、明和七年(一七七〇)村内の一部が川越藩領となる(松平藩日記)。「風土記稿」成立時は久留里藩領・川越藩領と数原および旗本五家の相給。幕末の改革組合取調書では幕府領・久留里藩領と数原および旗本六家の相給。

西別府村
にしべつぷむら

[現在地名]知覧町西元にしもと塩屋しおや

東別府村の西に位置し、西は川辺郷高田たかた(現川辺町)鹿籠かご郷鹿籠村(現枕崎市)、南は海に面する。海岸部に浦として西塩屋がある。中世は知覧院に属した。元亨二年(一三二二)一一月一〇日の島津貞久下知状(野辺文書)に「智覧院永山百姓」とみえ、永山ながやまは西元の字永山に比定される。同四年三月八日の平忠世和与状(旧記雑録)に「取違・宗馬・西谷・中原・山頭別府」と「永山・河床別府」がみえ、前者郡司、後者は地頭の一円知行地となっている。このうち取違とりちがい宗馬むねつま河床かわとこは、西元の取違・峯苫みねとま川床かわとこに比定される。

西別府村
にしべつぷむら

[現在地名]加治木町西別府

木田きだ村の北に位置し、東部宇曾木うそのき川が南流する。中世は加治木郷に含まれていた。応永三四年(一四二七)二月七日の某加治木郷坪付(樺山文書)に「西別府」内の「くわのさこの門」がみえる。なお建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、加治木郷のうちに「永富廿丁二反一丈二寸五分 御家人別府二郎長光」とみえる。永富ながとみは下木田村をさすとみられるが、別府長光は加治木氏庶流別府氏で(「古加治木家系図」東京大学史料編纂所蔵)、別府を名字の地としていたと考えられる。

西別府村
にしのべつぷむら

[現在地名]鹿児島市西別府町にしべつぷちよう西陵せいりよう一―八丁目・田上たがみ五丁目・同七―八丁目・田上台たがみだい四丁目など

田上村の北西に位置する。西ノ別府村とも記された。大部分シラス台地で、田上・脇田わきだ両川の川谷に集落が形成されている。「鹿児島県地誌」はニシノビウと読みを付す。寛正六年(一四六五)からの鹿児島諏訪社祭次第(旧記雑録)に「西之別府」とみえ、六番に編成されている。なお同次第には「東之別府」もみえ、五番に編成されている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では西別府村の高三九九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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