田上村(読み)たがみむら

日本歴史地名大系 「田上村」の解説

田上村
たがみむら

[現在地名]鹿児島市田上町・田上一―八丁目・田上台たがみだい一―四丁目・さくらおか武岡たけおか四丁目・西陵せいりよう一―二丁目・同六丁目・たけ三丁目など

武村の南に位置し、田上川が開析した谷間を中心に集落がある。東は荒田あらた村、南と西はシラス台地に続く。文保元年(一三一七)七月晦日の薩摩国御家人交名注文(旧記雑録)に鹿児島の御家人として「田上領主」とみえ、鹿児島郡司矢上一族の庶子家が領主であったと考えられる。貞和六年(一三五〇)頃、当地の軍勢が八月二〇日に打出したため、島津道鑑の子息らは守備に当たっていた谷峯たにみねを下り降りて戦っている(八月二一日「島津道鑑書状」比志島文書)。正平七年(一三五二)五月二二日、島津貞久は当村半分の代官職を伊地知彦七に与えた(「島津道鑑宛行状」旧記雑録)。文和三年(一三五四)五月二五日には鹿児島郡郡司職とともに当村などの郡司庶子家らの所領(名主職)が島津貞久に与えられている(「一色道猷宛行状」島津家文書)


田上村
たがみむら

[現在地名]田上町田上

新津丘陵の西側、町域の中央からやや北部に位置し、中店なかだな上野うわの山田やまだかわした本田上ほんたがみの集落からなる。地名は中条秀叟(房資)記録(三浦和田中条氏文書)の応永の乱の記述のなかに「菅名・田上原之合戦」とみえる。

慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)には「田上村・川ノ下村・大島村」四二三石六升とあり、同五年の御知行方田畠帳(同資料)によれば田方五〇町九反余・畠方一一町三反余、物成は田方二八〇石八斗余・畑方二七石一斗余、ほかに慶長四年水入開分として二町余に反別八斗が課されている。同一七年の御蔵納同払方帳(同資料)には「田上村・大面町・羽生堂村」で炉役米共五一七石三斗余、田上水入の年貢五石、同村出分一〇石、「上之郷うり山の銀」のうちに「弐百目 田上山分」などとみえる。


田上村
たがみむら

[現在地名]中野市大字田上

笠原かさはら岳の麓にあって、北より東にかけては其綿そのわた村・よし村、日向ひなた山で岩井いわい村に境し、南は上柳沢かみやなぎさわ村、西は千曲川をもって水内みのちはちす村に接している。

初出史料は笠原信親証文目録(斉民要術裏文書)に記された「信親所帯願行状」で、

<資料は省略されています>

とある。これにより寛元四年(一二四六)笠原かさはら牧内の田上村に笠原氏の存在することが知られる。

古代より岳北地方への交通の要地にあたり、笠原牧との関係ある曹洞宗長福ちようふく寺・観音かんのん寺などがある。前者はもと田上天平てんぴよう寺と称したといわれ、銅製大日如来の懸仏を有する。


田上村
たがみむら

[現在地名]笠間市福原ふくはら

吾国わがくに山の北麓にあり、北は関戸せきど村・中山なかやま村、東は本戸もとど村。中世は福原氏の支配下にあり、江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高八四七・八五六石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて二五石余を打出す。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によれば、村には村山一、四壁山四五などがあり、延享四年(一七四七)の戸数一二〇・人数五一一、馬三八。


田上村
たがみむら

[現在地名]北部町硯川すずりかわ 田上

井芹いせり川左岸にあり、東と南は柚木ゆのき村、南西しよう村、北は中尾なかお村・北迫きたざこ村に接する。慶長一三年(一六〇八)検地帳に「鹿子木之内田上村」とあり、田方九町六反二畝余・畠方一九町九反三畝余、分米二五〇石一斗余で、家数一八・人数一四、馬一・牛二とある。


田上村
たのうえむら

[現在地名]有明町大字田野上たのうえ

杵島山南部の東麓から東に広がった水田地帯である。山麓地域を除いた水田地帯の字名が全部壱本杉いつぽんすぎ弐本榎にほんえのき三本松さんぼんまつなどの樹木名が付けられていて、干拓と海退による開田地であることがわかる。村名もそのために生れたものと思われる。正保絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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