西城跡(読み)かさいじようあと

日本歴史地名大系 「西城跡」の解説

西城跡
かさいじようあと

[現在地名]葛飾区青戸七丁目

中川右岸、同川から約二五〇メートルに位置する平城跡。史料には葛西要害などとみえる。「後鑑」文明一七年(一四八五)一〇月三日条に引く「大関家譜」に「寛正二辛巳年足利成氏相属、武州出張、松山・葛西両城ヲ攻落、其外所々合戦相働」とあり、寛正二年(一四六一)大関常陸介増雄が足利成氏に属し葛西城を攻め落したという。葛西は室町期以後、山内上杉氏の支配下にあり、享徳三年(一四五四)の享徳の乱前後、山内上杉氏によって足利成氏に対抗するための拠点として築城されたと考えられる。文明一二年と推定される一一月二八日の太田道灌書状(松平文庫所蔵文書)に「千葉実胤事者、雖当方縁者被渡候、被招出大石見守葛西被越候、公方様内被申旨候」とあり、文明一〇年前後は、山内上杉方の大石石見守が城主であった。また千葉を追われた千葉氏嫡流の実胤が、葛西に招かれている。ここに記される葛西とは当城のことであろう。大永五年(一五二五)三月二三日に三戸義宜が長尾為景に送った書状(上杉家文書)に「至于近日者、大石見守方在宿地葛西ヘ敵取向候、自此口後詰之動被致之候故、于今堅固候、万一彼地無曲候者、当国滅亡不可有程候」とみえ、北条氏綱が大石石見守の在宿している葛西城を攻めている。天文七年(一五三八)二月二日、北条氏綱が葛西城を攻め落している(快元僧都記)。この後、北条氏の支配下となり、北条氏所領役帳には遠山弥九郎が葛西在城につき知行役を免除されていることが記され、永禄二年(一五五九)の段階で遠山弥九郎が葛西城主であった。同三年長尾景虎(上杉謙信)の攻撃を受け、岩付太田氏の勢力下となる(「太田家記」内閣文庫蔵)。このとき北条氏康は「江戸川越葛西有吉ノ城々ヘ手置ヲナシテ小田原ニ在城シ、一向ニ出馬ノ沙汰ニ及ハス」という状況であった(関八州古戦録)。同年と推定される四月二五日の北条氏康書状写(野田家文書)には、上杉謙信の関東侵攻に対し氏康が出馬の約束をしているにもかかわらず出馬が遅れてしまい、再度栗橋くりはし(現茨城県五霞村)城主野田氏に自身の出馬を約束している。このなかに「此上ハ急度致出陣、葛西筋義、涯分可走廻候」とあり、北条氏と上杉氏の攻防の場となっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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