日本大百科全書(ニッポニカ) 「西蔵大蔵経」の意味・わかりやすい解説
西蔵大蔵経
ちべっとだいぞうきょう
チベット語訳された仏典の叢書(そうしょ)。吐蕃(とばん)時代(7世紀初め~9世紀中ごろ)のチベット人著作も少数含まれる。8世紀後半にチソンデツェン王により仏教がチベットに正式に導入され、9世紀前半には、訳語と翻訳方法を定めたケサルチェ(新〈欽(きん)〉定語)が『翻訳名義大集(みょうぎたいしゅう)』などとして編纂(へんさん)された。その前後40年たらずの間に主要な顕教仏典の大部分がチベット語に翻訳され、さらに『デンカルマ目録』などの経録が作成された。その後、ランダルマ王(809~842)の破仏を経て、10世紀末前後に至ってふたたび仏教が盛んになると、リンチェンサムポらによる翻訳も始まり、14世紀ころまでには主要な顕教と密教の仏典翻訳がほぼ完了した。大部分の仏典はインドからの翻訳であるが、そのほかに中国やコータン(于闐)などからのもある。仏典は一般に経律論の三蔵に大別されるが、西蔵大蔵経では経律をカンギュル、論をテンギュルに二大別する。大蔵経の書写や集成の努力は古くからなされたようであるが、14世紀初頭に至って現存のものに近似した大蔵経が、ウパ・ロセルらによってナルタン寺で集成された。これに十分な補訂を加えて、1334年にプトゥン(プトン)はシャル寺においてテンギュルを集成し、その基本型を確立した。またナルタン寺のカンギュルを底本としてツェルパ・ゲワイロトの集成したものが、以後のカンギュルの基本型となった。これらはいずれも筆写本大蔵経であり、以後も回向(えこう)や功徳(くどく)のために多くの大蔵経、とくにカンギュルの筆写が行われた。中国では1410年に明(みん)の永楽帝がナルタン寺カンギュルを印刻開版し、1724年に清(しん)の雍正(ようせい)帝がテンギュルを開版した(北京(ペキン)版)。1732年、42年にはナルタン寺で、1733年、44年にはデルゲで、1743年、73年にはチョネでおのおのカンギュルとテンギュルが開版され、最近では1923年にラサでカンギュルが開版された。これらにも重刊や補訂版があるほか、古いリタン版(ジャン版)をはじめとする各種の版本の存在も知られている。漢訳大蔵経には伝わっていない典籍も多く伝訳されており、仏教研究の基礎資料として重要である。
[原田 覺]
『御牧克己著『チベット語仏典について』(『続 シルクロードと仏教文化』所収・1980・東洋哲学研究所)』