西里村(読み)にしざとむら

日本歴史地名大系 「西里村」の解説

西里村
にしざとむら

[現在地名]河北町西里

現河北町南西部に位置し、集落白山堂はくさんどう中島なかじま治部橋じぶばしを中心に、東に下槙しもまき、南にしおふち、西に天満てんま、北方山麓沿いに両所りようしよ根際ねぎわと分散し、互いに入組んで単一集落の形をとっていない。南西は溝延みぞのべ村、東は旧谷地やち村に接する。天正一五年(一五八七)二月二八日の境介次郎(助治郎)宛の最上義光充行状(岡田文書)に「にしさとの内六百苅之処、為取之候、於末代可仕成敗者也」とある。同日付の「熊野権現御除地之事」とある高木真件年貢免許状写(同文書)によると、先例によって六〇〇刈すなわち田畑屋敷四反九畝二九歩が、除地として境助治郎に与えられている。境介次郎は天満の熊野神社の社人であった。なお、岡田文書は検討の余地があるとされる。同一七年二月二〇日の最上義光預置状(青木文書)によると、西里の「青木孫」は、「木の下在家」三貫文の地を支配した。両所の両所神社には、布阿安芸守が寛正五年(一四六四)一一月吉日に施入した両所権現御正体の懸仏が所蔵されていたが、現在は所在不明。村内には両所・白山堂・天満・安楽寺・慶光寺・正玄坊・仏向寺・仏狭間など宗教的地名が多い。

元和八年(一六二二)上山藩領となり、寛永四年(一六二七)以降幕府領。元和八年の高は、西里中島八一一石余、西里村八二五石余、西里天満九四一石(西村山郡史)

西里村
にしざとむら

[現在地名]小国町西里

北里きたざと川の上流はげ川の上流に挟まれ、標高約六〇〇メートル。南に明里あかり村、東に岳湯たけのゆ村がある。正平一八年(一三六三)閏一月二五日の阿蘇社造営料木納帳(阿蘇家文書)によれば「にしのさと」として貫一支を、北里・同所御料所と寄合で貫三支を弁済している。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)には近世に当村の小村とされる打越うちこし田井たい尾張おわり杉屋所すぎやどころ所尾野ところおの菅迫すげのさこがみられ、豆・麻・銭をそれぞれ負担している。

西里村
にすだていむら

[現在地名]平良西里にしざと

北西部は平良ぴいさら内海に面し、東は東仲宗根あがなかずうに村、西は下里すんだてい村に接する。砂川うるか間切に属し、平良五ヵ村の一つ。方音ではニスダティ。宮古島海運の拠点漲水ぴやるみず港があり、近くに宮古第一という漲水御嶽がある。また宮古島蔵元が置かれた。北部は街並を形成し、系持(士族)が多く住み、南部は農村地が広がり、名子による開拓集落が散在する。一四世紀頃、根間の大按司がおり、仲宗根豊見親(忠導氏の祖)・目黒盛豊見親(根馬氏の祖)・知利真良豊見親(宮金氏の祖)らはその係累と伝える。これらの氏族は近世に有力系持となり、役人を輩出した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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