西青木村(読み)にしあおきむら

日本歴史地名大系 「西青木村」の解説

西青木村
にしあおきむら

[現在地名]富浦町青木

岡本おかもと村の東に位置し、東は東青木村。中世には多々良たたら庄に含まれ、東青木村とともに青木村といった。天正一五年(一五八七)四月五日の里見義康安堵状(延命寺文書)に「多々良之庄於青木之村」とみえ、義康は当地光厳こうごん(里見義頼菩提寺)延命えんめい(現三芳村)末寺であることを確認している。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録によると青木村の高三九七石余、うち田方三一〇石余。里見氏直轄領。同九年一二月二〇日、里見梅鶴丸(忠義)は、「御寺領ふそくのよしおほせ候間」、「たいせいゐん」(光厳寺塔頭大勢院)に青木村田畠三〇石を寄進しており(「里見梅鶴丸寄進状」延命寺文書)、同一一年の里見家分限帳では高三九七石余のうち光厳寺領三八石・滝不動免五石、残余は直轄領。


西青木村
にしおうぎむら

[現在地名]東灘区北青木きたおうぎ三―四丁目・青木三丁目・同六丁目・本山南町もとやまみなみまち四―五丁目

東青木村の西、大阪湾に面する沖積地に立地する。中世には山路やまじ庄内にあり、永禄一二年(一五六九)一二月吉日の山路庄公事銭取納帳案(高井文書)には西青木村分の項があり、また本庄ほんじよう村分出作の項には「西あふきノ源二郎」を記す。慶長国絵図には西青木とみえ、高一八六石余。江戸時代の領主の変遷は石屋いしや村と同じ。正保郷帳でも同高。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高二一三石余。天保郷帳では高二一九石余。


西青木村
にしあおきむら

[現在地名]城島町西青木、大川市下青木しもあおき

筑後川下流左岸に位置し、明治四年(一八七一)上青木村から分村して成立(三潴郡誌)。東は上青木村・下青木村、南はかね(現大川市)。「在方諸覚書」、享和二年(一八〇二)の春免高帳、文化四年(一八〇七)畝付帳には上青木村がそれぞれ二村あり、一方が当村にあたるとみられる。旧高旧領取調帳では高一千六三石余。明治七年の佐賀の乱では、政府軍と佐賀軍が当地付近で筑後川を挟み銃撃戦を展開したという(城島町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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