観世宗節(読み)かんぜそうせつ

改訂新版 世界大百科事典 「観世宗節」の意味・わかりやすい解説

観世宗節 (かんぜそうせつ)
生没年:1509-83(永正6-天正11)

7世観世大夫。6世道見の三男。母は金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)の女。本名三郎元忠。法名一安斎宗節。14歳で父に死別,観世大夫を継ぐ(《四座役者目録》)。当初は父の従弟観世長俊の指導を得たと想像されるが,長俊・元頼父子とはやがて不和となったようで(《能口伝之聞書》,《親俊日記》天文8年正月25日条ほか),《四座役者目録》には長俊から芸事いっさいを相伝したとあるが信じがたい。むしろ父没後の後見人に人を得ぬまま多くの芸事が退転し,独力で再興せざるを得なかった可能性すら考えられる。しかしながら観世大夫としての活躍は父道見に遜色のないものであった。1543年(天文12)2月には,火災で焼失した将軍拝領の装束類の補充を,将軍義晴の口入れで内裏より下賜され(《多聞院日記》),1530年(享禄3)5月五条玉造,40年(天文9)3月西陣,45年3月,64年(永禄7)5月の両度,相国寺八幡等で勧進猿楽を興行していることなどが注目される。また1571年(元亀2)には徳川家康の下に祗候(しこう)していた兄の駿河十郎大夫を頼って浜松に下向(《当代記》),家康知遇を得た。同地で,兄十郎大夫が世阿弥直系の観世十郎大夫家より伝領し,家康に献上されていた世阿弥伝書を借覧書写し,その一部が現存する。宗節は生涯を通じて多くの謡本を書写相伝し,宗節の名を冠した謡伝書や能型付が伝存するが,京を中心に謡教授の家として活躍していた元頼に対抗して独自の活動を展開してもいる。1566年(永禄9)ころに養嗣子元尚(元盛)に跡を譲り隠居したが,77年(天正5)元尚が早世したため,その遺児鬼若(後の観世黒雪)を養育・指導するうち,83年75歳で没した。
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朝日日本歴史人物事典 「観世宗節」の解説

観世宗節

没年:天正11.12.5(1584.1.17)
生年:永正6(1509)
室町後期・戦国時代の能役者。本名三郎元忠。父は6世観世大夫元広,母は金春禅鳳の娘。14歳で父に死別して7世観世大夫となる。後見役の観世長俊・元頼父子との不和などの問題を抱えながらも,数度におよぶ勧進猿楽興行をはじめとして精力的に活躍,元亀2(1571)年には徳川家康の知遇を得ている。世阿弥伝書や謡本の書写といった活動も積極的に行っていたらしい。永禄9(1566)年ごろ養嗣子の元尚に大夫職を譲って隠居,その後天正5(1577)年に元尚が没したため遺児鬼若(観世黒雪)の後見に当たった。

(石井倫子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「観世宗節」の解説

観世宗節 かんぜ-そうせつ

観世元忠(かんぜ-もとただ)

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