中国、後漢(ごかん)末期の群雄の一人。字(あざな)は本初。汝南(じょなん)汝陽(河南省商水県)の人。袁氏は4代にわたり三公を輩出した名門で、国内には袁氏の恩顧を受けた門生や故吏(こり)があふれていた。霊帝(れいてい)の死後、宦官(かんがん)を排除しようとした外戚の何進(かしん)が、逆に謀殺されると、従弟(いとこ)の袁術とともに宦官2000人を皆殺しにした。董卓(とうたく)が献帝を擁して実権を奪うと、渤海(ぼっかい)太守に遠ざけられた。山東の豪族を組織し、董卓征伐の盟主となり、董卓を首都洛陽(らくよう)から長安に逃走させた。帝室の一族で幽州(ゆうしゅう)牧の劉虞(りゅうぐ)を皇帝にしようとしたが、劉虞に拒否された。袁紹は、河北に割拠していた公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼして勢力を拡大し、山東、河北の4州を領し、烏丸(うがん)の精兵を収めて有力な軍閥となった。さらに献帝を迎え入れて力を増した曹操(そうそう)と対抗したが、河南省中牟(ちゅうぼう)県にある黄河の渡し場官渡(かんと)の戦いで大敗した(200)。袁紹の死後、袁尚が継いだが、内紛のため袁氏はほどなく滅亡した。
[上田早苗]
中国,後漢末の群雄の一人。字は本初。4代にわたって三公を輩出した汝南汝陽(河南省商水県)の名族の出身。191年(初平2),韓馥(かんふく)から冀州牧の地位を奪い,鄴(ぎよう)(河南省臨漳県)を本拠として黄河北域に覇を唱えた。一時は反董卓勢力の盟主となったが,やがて黄河南域に勢力を扶植した曹操と対立するにいたった。200年の官渡(河南省中牟県)の戦において曹操に敗れ,またその死後,息子の袁譚・袁尚兄弟のあいだに争いが生じたため,華北の覇権は曹操に帰した。
執筆者:吉川 忠夫
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…中国,後漢末,曹操と袁紹との決戦。199年(建安4)袁紹は公孫瓚を破って河北・山西方面を統一,献帝を擁立して山東・河南方面に割拠していた曹操も袁術の病死で勢力を拡大,両者が黄河を挟んで華北を二分する形勢となった。…
…武帝が13州を置くと,魏郡は冀州(きしゆう)に属した。後漢末,袁紹(えんしよう)は冀州牧として独立の勢いを示すと,鄴の地に拠った。つづいて曹操が袁紹を倒してこの地を都とし,魏公から魏王へと進んだ。…
…
[三国分立時代の形成と展開]
184年(光和7)の黄巾の乱とこれに続いて頻発する大衆的反乱は,全国に軍閥勢力を興起させる契機となった。まず外戚何進(?‐189)は洛陽警備のために八校尉を置いたが,やがて自立して群雄となる袁紹,曹操ともにその一人である。何進はまた宦官勢力を一掃すべく山西方面の軍団長董卓(とうたく)に入朝を要請した。…
…やがて首都洛陽にもどって近衛部隊長になっていたとき,西方から上洛してきた武将の董卓(とうたく)が強大な武力を背景にして189年,天子の廃立を行い,首都は大混乱に陥った。そこを脱出した曹操は,翌190年(初平1)袁紹(えんしよう)を盟主とする董卓討伐軍が各地に蜂起すると,みずから集めた兵を率いて参加したが,同盟は名ばかりで,事実上これより群雄割拠の状態になる。曹操はだいたい山東省西部から江蘇省北部に及ぶ地方を勢力下に収めた。…
※「袁紹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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