日本大百科全書(ニッポニカ) 「荀彧」の意味・わかりやすい解説
荀彧
じゅんいく
(163―212)
中国、後漢(ごかん)末の、曹操(そうそう)の幕僚。字(あざな)は文若(ぶんじゃく)。潁川(えいせん)郡潁陰(えいいん)県(河南(かなん)省許昌(きょしょう)市)の人。人並み優れた才知と容貌(ようぼう)をもち、何顒(かぎょう)から「王佐(おうさ)の才」(王業の実現を補佐する才能)と評価された。初め袁紹(えんしょう)に仕えたが、見切りをつけて曹操に帰順し、「わが子房(しぼう)」と、前漢の劉邦(りゅうほう)の謀臣、張良(ちょうりょう)になぞらえられて歓迎された。曹操に献帝(けんてい)を推戴(すいたい)することを進言、天子の名を利用して他の群雄に命を下すことを可能にし、また潁川郡の許(きょ)県を拠点とさせた。さらに、郭嘉(かくか)・司馬懿(しばい)・陳羣(ちんぐん)といった多くの名士を推挙して曹操集団の安定性を高めた。200年、天下分け目の官渡(かんと)の戦いでは、許県を守って後方支援を行い、撤兵を相談する曹操を励まし、ついには袁紹を破らせるなど、軍師として勲功第一の働きをした。だが、208年、赤壁(せきへき)の戦いに敗れた曹操が、中国の統一よりも漢を滅ぼす準備を優先し始め、名士の理想から遠ざかっていくと、漢を守って曹操と対立する。最終的には、曹操の魏公(ぎこう)就任に反対、自殺を強要された。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』