豊竹筑前少掾(読み)とよたけちくぜんのしょうじょう

改訂新版 世界大百科事典 「豊竹筑前少掾」の意味・わかりやすい解説

豊竹筑前少掾 (とよたけちくぜんのしょうじょう)
生没年:1700-68(元禄13-明和5)

義太夫節太夫陸奥茂太夫門人で,本名は岸本屋善兵衛。初め陸奥伊太夫と称し出羽芝居に出演していたが,1737年(元文2),竹本座へ移り,竹本美濃太夫,さらに竹本此太夫となる。播磨少掾(竹本政太夫没後は義太夫節第三世代の旗頭として竹本座を背負って立った。しかし48年(寛延1),人形遣い吉田文三郎と演出上衝突した忠臣蔵事件(《仮名手本忠臣蔵》)で退座した。その後は豊竹座に移籍,49年に受領して豊竹筑前少掾藤原為政と称した。低調子ながらよく情を語り,独特のはなやかさと,巧みな音遣いで,《佐太村》《鮓屋》《山科》《熊谷陣屋》など,筑前風の名曲を後世に残した名人。通称合羽屋。
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朝日日本歴史人物事典 「豊竹筑前少掾」の解説

豊竹筑前少掾

没年:明和5.11.5(1768.12.13)
生年元禄13(1700)
江戸中期,義太夫節の太夫。前身の商売から通称合羽屋伊兵衛。享保18(1733)年陸奥茂太夫の門弟として豊竹座に初出座。元文2(1737)年には竹本美濃太夫の名で竹本座へ出勤し,翌年竹本此太夫を名乗る。延享1(1744)年の竹本播磨少掾没後は竹本座の中心的存在として活躍,「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」では三段目切を,「仮名手本忠臣蔵」では九段目を語った。寛延1(1748)年の興行中に,此太夫と人形遣いの吉田文三郎とが演出上の意見の相違から衝突,此太夫は島太夫ら3名と共に竹本座を退座するという,いわゆる「忠臣蔵騒動」が起きる。此太夫は豊竹座へ移籍し豊竹此太夫改名,翌年受領して豊竹筑前少掾藤原為政を名乗り,宝暦期前半の豊竹座の三段目切を主に語る。宝暦1(1751)年12月豊竹座初演の「一谷嫩軍記」では三段目切「熊谷陣屋の段」を語り大当たりを取った。小音,低調子のなかにも派手な気分を出すように心掛けたといわれ,現在でも「筑前風」として伝えられている。宝暦7年に引退,以後後進の指導に専念した。

(桜井弘)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊竹筑前少掾」の解説

豊竹筑前少掾 とよたけ-ちくぜんのしょうじょう

1700-1768 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
元禄(げんろく)13年生まれ。大坂の人。義太夫節の陸奥(みちのく)茂太夫の弟子。豊竹伊太夫,竹本美濃太夫をへて,元文3年竹本此太夫(このたゆう)を名のる。寛延元年「仮名手本忠臣蔵」上演の際,人形遣い初代吉田文三郎と衝突,竹本座から豊竹座へうつり豊竹此太夫と改名。翌年筑前少掾を受領した。明和5年11月5日死去。69歳。通称は岸本屋善兵衛,合羽屋。

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