たけもと‐まさたゆう【竹本政太夫】
- 義太夫節の太夫。
- [ 一 ] 初世。⇒たけもとはりまのしょうじょう(竹本播磨少掾)
- [ 二 ] 二世。大坂の人。通称薩摩屋重兵衛。初代の門弟、のち養子となる。寛保三年(一七四三)竹本座に初出座。師に生き写しで小政と呼ばれ、新町西口に住んだところから西口、また雑喉場(ざこば)の出身であるところから雑喉場とも呼ばれた。宝永七~明和二年(一七一〇‐六五)
- [ 三 ] 三世。大坂の人。通称播磨屋利兵衛。二世の門弟で、初名中太夫。明和四年(一七六七)三世を襲名。塩町筋に住んだので塩町(しおまち)と呼ばれた名人。後に播磨太夫と名乗り、江戸で没。享保一七~文化八年(一七三二‐一八一一)
- [ 四 ] 四世。大坂の人。通称若狭屋藤助。三世の門弟で、初名和太夫・二世氏太夫。文化六年(一八〇九)四世を襲名。天保元年(一八三〇)八一歳で引退。寛延三~天保四年(一七五〇‐一八三三)
- [ 五 ] 五世。四世染太夫の門弟。琴太夫・三世重太夫を経て、天保一一年(一八四〇)五世を襲名、四か月で没。安永九~天保一一年(一七八〇‐一八四〇)
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竹本政太夫
たけもとまさたゆう
義太夫(ぎだゆう)節の大夫。竹本義太夫という芸名とともに、竹本座系では重要視される名前で、代々名手が輩出した。
[倉田喜弘]
(1691―1744)竹本義太夫の門弟。義太夫が没した翌1715年(正徳5)和歌竹政太夫から竹本政太夫と改名。小音ながら喜怒哀楽の情(じょう)をよく語り、『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)をはじめ数多くの当りをとって、浄瑠璃(じょうるり)中興の祖といわれた。34年(享保19)2世義太夫を継ぐ。翌年竹本上総少掾(かずさのしょうじょう)を受領(ずりょう)。さらに37年(元文2)に再受領して、竹本播磨少掾(はりまのしょうじょう)となる。
[倉田喜弘]
(1710―65)大坂雑喉場(ざこば)の商人で、俗に雑喉場政太夫とも西口政太夫ともいう。初世の門弟、のち養子となる。『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)などの上演により、竹本座に全盛期をもたらした。
[倉田喜弘]
(1732―1811)2世の門弟。俗称を塩町政太夫、また前名にちなんで中太夫の政太夫ともいう。登場人物ごとに語り口を変える技巧を使い、従来とはまったく違った演奏法を確立した。一代の当り芸は『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)「河庄」(かわしょう)の段である。4世(1750―1833)も5世(1780―1840)も櫓下(やぐらした)を勤めた名手であった。なお6世の襲名は紛議をおこし、4世重太夫の願いは実らず、東京の岡太夫(1815―97)が1893年(明治26)に継いだ。
[倉田喜弘]
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竹本政太夫 (たけもとまさたゆう)
義太夫節の太夫。(1)初世(1691-1744・元禄4-延享1) 大坂,島の内の生れ。通称中紅屋(なかもみや)長四郎。竹本筑後掾(竹本義太夫)に入門したが,1710年(宝永7)若竹政太夫の名で豊竹座へ初出座。2年後に竹本座へ出演して和歌竹政太夫と改名,15年(正徳5)に竹本政太夫となる。のち2世竹本義太夫(3世説もある)や竹本上総少掾を経て,37年(元文2)に竹本播磨少掾を再受領した。小音ながらも喜怒哀楽の情をよく語り,浄瑠璃中興の祖といわれた。(2)2世(1710-65・宝永7-明和2) 通称薩摩屋重兵衛。大坂雑喉場(ざこば)に生まれる。師匠の初世写しの芸風で,《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》《仮名手本忠臣蔵》を初演,気品を必要とする《菅原》《千本桜》の二段目切や《忠臣蔵》の四段目を語った。(3)3世(1732-1811・享保17-文化8) 通称播磨屋利兵衛。大坂の人で2世の門弟となり,1756年(宝暦6)竹本中太夫の名で初出座。《河庄》を練り上げて当り芸とした。なお5世に至るまで,代々紋下級の名人が輩出した。
執筆者:倉田 喜弘
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竹本政太夫(2世)
たけもとまさたゆう[にせい]
[生]宝永7 (1710).大坂
[没]明和2 (1765)
義太夫節の太夫。通称薩摩屋重兵衛。大坂雑喉場の出身。1世竹本政太夫(→竹本義太夫〈2世〉)の弟子で,小政とあだ名されるほど師の芸風を踏襲し,寛保3(1743)年竹本座に初出座。雑喉場政太夫,新町西口に住んだことから西口政太夫とも呼ばれた。大音でやや癖のある語り口ながら,師匠譲りの文章を大切にする質実な西風の伝統を遵守した。寛延1(1748)年『仮名手本忠臣蔵』初演時に多くの座員の異動があったときも竹本座を離れず,『義経千本桜』などの浄瑠璃黄金期の作品から,晩年の近松半二作『奥州安達原』にいたるまで,一貫して竹本座の中心の一人であり続けた。(→人形浄瑠璃,文楽)
竹本政太夫(3世)
たけもとまさたゆう[さんせい]
[生]享保12 (1732). 大坂
[没]文化8 (1811)
義太夫節の太夫。通称播磨屋利兵衛。2世竹本政太夫の門弟となり,宝暦6(1756)年竹本中太夫の名で竹本座初出座。カワリ(人物や情景が瞬時に切り替わる部分,およびその変化を描写する技法)の名人で,中太夫の四季ガワリと称賛された。師の没後,1世竹本土佐太夫と 1世竹本染太夫との間に後継争いが起こったが,協議の末,明和4(1767)年に正式に 3世政太夫を襲名し,塩町の政太夫と呼ばれた。竹本座退転以降,天明6(1786)年の『彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』の初演などで奮闘したが,江戸で興業する機会が多く,最期も竹本播磨太夫を名のって江戸で客死した。(→浄瑠璃,人形浄瑠璃,文楽)
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竹本政太夫(2代)
没年:明和2.7.10(1765.8.26)
生年:宝永7(1710)
江戸中期の義太夫節の太夫。本名薩摩屋重(十)兵衛。大坂雑喉場で魚屋を営み,のちに新町西口にも住んだので,雑喉場政太夫,西口政太夫とも呼ばれた。竹本播磨少掾門下だが初出座は34歳と遅く,寛保3(1743)年竹本座。師匠そっくりの芸で評判となる。翌延享1(1744)年の播磨少掾没後は竹本座の二段目切語りとなった。寛延1(1748)年のいわゆる「忠臣蔵騒動」で此太夫が豊竹座へ移籍したのちの宝暦期(18世紀中ごろ)竹本座で中心的存在である三段目切語りとして活躍した。師の七回忌,十三回忌,十七回忌の追善興行も政太夫によって催された。師の芸風をよく伝えたうえに,恵まれた素質を生かした技巧的な芸風といわれている。
竹本政太夫(3代)
没年:文化8.7.14(1811.9.1)
生年:享保17(1732)
江戸中・後期,義太夫節の太夫。通称播磨屋利兵衛。俗に塩町の政太夫。2代目政太夫の門人で,竹本中太夫を経て,師の没後の明和4(1767)年3代目を襲名。晩年播磨太夫を名乗る。大坂,江戸で人気があったが,師の存命中に江戸で政太夫を名乗って紛糾したり,寛政4(1792)年に播磨大掾を名乗るが2興行で差し止められたり,とかく話題の多かった人物。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
竹本政太夫(3代) たけもと-まさたゆう
1732-1811 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)17年生まれ。義太夫節。2代の弟子で,前名は中太夫。師の没後,初代竹本土佐太夫,初代竹本染太夫と政太夫の名跡をあらそい,明和4年大坂の竹本座に出演して正式に襲名した。のち播磨太夫(はりまだゆう)を名のった。文化8年7月14日死去。80歳。通称は播磨屋利兵衛,塩町の政太夫。
竹本政太夫(2代) たけもと-まさたゆう
1710-1765 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝永7年生まれ。義太夫節。初代の弟子から養子となる。大坂雑喉場(ざこば)の商人の出で,雑喉場政太夫,西口政太夫ともいわれる。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」を初演,竹本座全盛時代をきずいた。明和2年7月10日死去。56歳。通称は薩摩屋重兵衛。
竹本政太夫(4代) たけもと-まさたゆう
1750-1833 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
寛延3年生まれ。義太夫節。3代の門弟で,和太夫,2代氏太夫をへて文化6年4代を襲名した。天保(てんぽう)4年7月24日死去。84歳。通称は若狭屋藤助。
竹本政太夫(5代) たけもと-まさたゆう
1780-1840 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
安永9年生まれ。義太夫節。琴太夫,3代重太夫をへて天保(てんぽう)11年5代を襲名した。同年6月23日死去。61歳。通称は堺屋清七。
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世界大百科事典(旧版)内の竹本政太夫の言及
【義太夫節】より
…1705年(宝永2),座付作者に[近松門左衛門]を迎えたことも,日本の芸術史上,意義深いものがあった。竹本義太夫の後継者となった竹本政太夫(播磨少掾)によって,人間,とくに情を深く語るという義太夫節の特色がいっそう明確になった。一方,1703年(元禄16),音楽性を重んずる[豊竹若太夫](越前少掾)は[豊竹座]をたてて独立したが,やがて紀海音を作者に得て,竹本座と対抗した。…
【浄瑠璃】より
…98年(元禄11)筑後掾受領,1705年(宝永2)11月の《[用明天王職人鑑]》以後,[竹田出雲](座本),近松門左衛門(作者),[辰松八郎兵衛](人形),[竹沢権右衛門](三味線)を擁し活躍した。その没後は[竹本政太夫](《吉備津彦神社史料》《熊野年代記》に筑後掾悴義太夫の名があり,政太夫は2世義太夫とされてきたが3世か)が近松作品を深く語り分け,豊竹座の若太夫([豊竹若太夫],越前少掾)も紀海音の義理にからむ作風を巧みに観客の時代感覚に訴えて,西風(竹本),東風(豊竹)が競演し,浄瑠璃の近世意識が最高に発揮された。 享保(1716‐36)後半からの人形機巧の発達,舞台装置の発達は浄瑠璃の脚本化,舞台装置の歌舞伎化を招く。…
【吉田文三郎】より
…人形のからくりや演出などのくふうにも才があり,3人遣いの完成に大きく貢献したほか,演出にも意欲をみせた。《[夏祭浪花鑑](なつまつりなにわかがみ)》で初めて人形に帷子(かたびら)を着せ,立回りに本泥水を使い,《[義経千本桜]》の佐藤忠信の人形に[竹本政太夫]の源氏車の紋を用いるなど,その演出は現在も踏襲されている。48年(寛延1)の《仮名手本忠臣蔵》では[櫓下](やぐらした)の竹本此太夫と舞台演出の問題で衝突,此太夫は竹本座を退座して[豊竹座]に移ったため東風西風の浄瑠璃の曲風が乱れる因をなした。…
※「竹本政太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」