吉田文三郎(読み)よしだぶんざぶろう

改訂新版 世界大百科事典 「吉田文三郎」の意味・わかりやすい解説

吉田文三郎 (よしだぶんざぶろう)

人形遣い。(1)初世(?-1760(宝暦10)) 幼名吉田八之助。浄瑠璃作者名吉田冠子(かんし)(初世)。竹本座創設期の立役遣い吉田三郎兵衛の子で幼時から父に学び,1717年(享保2)竹本座で初舞台。長じて竹本座の人形遣いの中心となり立役,女方ともに優れた。また人形からくり演出などのくふうにも才があり,3人遣いの完成に大きく貢献したほか,演出にも意欲をみせた。

 《夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)》で初めて人形に帷子(かたびら)を着せ,立回りに本泥水を使い,《義経千本桜》の佐藤忠信の人形に竹本政太夫の源氏車の紋を用いるなど,その演出は現在も踏襲されている。48年(寛延1)の《仮名手本忠臣蔵》では櫓下(やぐらした)の竹本此太夫と舞台演出の問題で衝突,此太夫は竹本座を退座して豊竹座に移ったため東風西風の浄瑠璃の曲風が乱れる因をなした。作者としては合作であるが,《恋女房染分手綱(こいにようぼうそめわけたづな)》など15編の作品を残している。(2)2世(1732-90・享保17-寛政2) 初世の子。幼名吉田八太郎。初世文吾,2世三郎兵衛を経て,1761年(宝暦11)2世を襲名。作者名は2世吉田冠子。父に劣らぬ名人といわれ,一時江戸に下り《神霊矢口渡しんれいやぐちのわたし)》の作にも関係したが作品数は少ない。(3)3世(?-1829(文政12)) 2世の門弟。前名千四。1821年(文政4)3世を襲名。芸域広く名手といわれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田文三郎」の意味・わかりやすい解説

吉田文三郎
よしだぶんざぶろう

人形遣い。

[山田庄一]

初世

(?―1760)幼名八之助。竹本座創設ごろの立役(たちやく)遣いの名手吉田三郎兵衛の子。幼時から人形をもち才能を認められた。1717年(享保2)『国性爺後日合戦(こくせんやごにちのかっせん)』の経錦舎(けいきんしゃ)で初舞台、「さすがに父の子」との評をとった。享保(きょうほう)10年代以後は竹本座人形の座頭(ざがしら)格となり、立役、女方を兼ね優れた演技をみせるとともに、人形の改良にもくふうを重ね、34年(享保19)『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』における3人遣いの完成に大きな貢献をした。48年(寛延1)『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』初演に際し紋下(もんした)の竹本此太夫(このたゆう)と激突、此太夫以下が竹本座を去って豊竹(とよたけ)座に移るという東西太夫の入れ替え事件となった。59年(宝暦9)文三郎も竹本座を脱退、京に上ったが翌年没した。彼はまた吉田冠子(かんし)の名で作者としても活躍したが、すべて合作であり、人形の見せ場をつくる改作や増補が多い。

[山田庄一]

2世

(1732―90)初世の実子。大坂に生まれる。幼名八太郎。文吾から2世三郎兵衛を経て1761年(宝暦11)2世を襲名。父に劣らぬ名人といわれた。作者名は2世吉田冠子。

[山田庄一]

3世

(?―1829)2世の門弟で、初名千四。1821年(文政4)3世を襲名。芸域広く名手といわれた。

[山田庄一]

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朝日日本歴史人物事典 「吉田文三郎」の解説

吉田文三郎(初代)

没年:宝暦10(1760)
生年:生年不詳
江戸中期,人形浄瑠璃の人形遣いの名手。上方の人。幼名八之助。吉田三郎兵衛の子。早くから父の薫陶を受け,享保2(1717)年「国性爺後日合戦」の錦舎役で初舞台,以後寛延期(1748~51)まで活躍,人形浄瑠璃全盛期の一翼を担った。三人遣い操法の完成者とみなされ,「蘆屋道満大内鑑」の葛の葉,保名,奴与勘平,「義経千本桜」の狐忠信,「仮名手本忠臣蔵」の由良之助など,今日の舞台に残る名作中の重要な役柄の人形を,立役,女形を問わず次々と遣い,その技は「人形が生きて働きます」と評された。才気にあふれ,人形の衣裳や舞台演出にも現在に引き継がれている優れた型を種々残した。座本や太夫と衝突することも多く,寛延1(1748)年の「仮名手本忠臣蔵」初演時には初代竹本此太夫が退座し,豊竹座の太夫と入れ替わるような騒動まで引き起こし,竹本座の西風,豊竹座の東風という両座の太夫の芸風が混交するもととなった。前後5回竹本座からの独立を企て,5度目に退座したが一座を建てることなく没した。「冠子」の名で作者の列にも加わった。名跡は3代まで続く。<参考文献>4代目竹田近江『倒冠雑誌』(『日本庶民文化史料集成』7巻),石割松太郎『近世演劇雑考』,『義太夫年表/近世篇1』

(平田澄子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田文三郎」の意味・わかりやすい解説

吉田文三郎(1世)
よしだぶんざぶろう[いっせい]

[生]?
[没]宝暦10(1760)
人形遣い。幼名八之助。竹本座の立役遣い吉田三郎兵衛の子。享保2 (1717) 年『国性爺後日合戦』に,国性爺の子経錦舎を遣い好評。享保後期には竹本座の中心的存在となった。同 19年三人遣いを発明してから演技に一層写実味を加えるとともに,演出面にもすぐれ,『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などの主役を初演,延享~寛延年間 (44~51) 人形浄瑠璃全盛時代の立役者となり,その演出は今日まで伝えられている。寛延1 (48) 年『忠臣蔵』初演のとき座頭格の竹本此太夫と対立し,此太夫を竹本座から退座させた事件は有名。宝暦1 (51) 年から作者を兼ね (作者名は吉田冠子) ,『恋女房染分手綱』などを合作。生涯に5回独立を企てて失敗,同9年竹本座を退座,翌年没した。

吉田文三郎(2世)
よしだぶんざぶろう[にせい]

[生]享保17(1732)
[没]寛政2(1790)
人形遣い。1世吉田文三郎の子。八太郎,文吾,三郎兵衛を経て,宝暦 11 (1761) 年2世を襲名。宝暦~天明年間 (51~89) に竹本座その他で活躍。また作者としても父の名吉田冠子を継ぎ,明和5 (1768) ~同7年には,江戸肥前座で玉泉堂と新作を上演。外記座では福内鬼外の『神霊矢口渡』の作を助けたといわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田文三郎」の解説

吉田文三郎(初代) よしだ-ぶんざぶろう

?-1760 江戸時代中期の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い,作者。
初代吉田三郎兵衛の子。大坂竹本座の座頭(ざがしら)格となる。演出,からくりを工夫し,3人遣いの様式を完成する。竹本此太夫(このたゆう)(豊竹筑前少掾(ちくぜんのしょうじょう))と舞台演出をめぐり対立して此太夫を退座に追いやる。宝暦9年一門をひきいて竹本座を退座。吉田冠子(初代)の名で作者もかねた。宝暦10年1月19日死去。大坂出身。

吉田文三郎(2代) よしだ-ぶんざぶろう

1732-1791* 江戸時代中期の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い,作者。
享保(きょうほう)17年生まれ。初代吉田文三郎の子。初代吉田三郎兵衛の孫。初代吉田文吾,2代三郎兵衛をへて,宝暦11年2代文三郎を襲名。父におとらぬ名人といわれ,立役(たちやく),女方ともにすぐれた。寛政2年12月4日死去。59歳。大坂出身。作者名は2代吉田冠子。

吉田文三郎(3代) よしだ-ぶんざぶろう

?-1829 江戸時代中期-後期の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い。
2代吉田文三郎の門弟。安永8年大坂竹本座で初舞台,文化3年人形座頭(ざがしら)となる。文政4年3代を襲名。芸域がひろく,早変わりなどにすぐれ,名手といわれた。文政12年1月7日死去。大坂出身。前名は初代吉田千四。

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百科事典マイペディア 「吉田文三郎」の意味・わかりやすい解説

吉田文三郎【よしだぶんざぶろう】

人形浄瑠璃の人形遣(つかい),演出家。吉田流の元祖。竹本座で人形の技法や演出に創意工夫を凝らし,冠子の名で《恋女房染分手綱》の合作に加わった。人形浄瑠璃の視覚的な表現性を高め,また初めて立役と女方を兼ねた古今の名人。

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世界大百科事典(旧版)内の吉田文三郎の言及

【竹田出雲】より

…歌舞伎の影響もあって舞台本位に急なあまり,文章上の矛盾もまた見られた。さらに人形遣いの発言力も増し,1748年(寛延1)《仮名手本忠臣蔵》初演のとき,吉田文三郎と竹本此太夫との衝突事件で座本の出雲が文三郎に加担したため,此太夫ほかの太夫が豊竹座に移り,以後,竹本西風の芸と豊竹東風の芸との乱れを生じたことは座経営上の失敗であった。おもな作品(小出雲時代を除く)は《傾城枕軍談》(1747),《義経千本桜》(1747),《仮名手本忠臣蔵》(1748),《粟島譜嫁入雛形(あわしまけいずよめいりひながた)》(1749),《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》(1749)など。…

【夏祭浪花鑑】より

…1745年(延享2)7月大坂竹本座初演。団七とお辰の人形の初演者は初世吉田文三郎。初演時の番付の口上書に〈魚売団七高津祭宵宮長町裏にて舅を殺し候は四拾年以前の義……始終の実説を承合此度新作に取組〉とある。…

【人形浄瑠璃】より

…両座の競争により浄瑠璃界はいっそう活気を帯び,享保後半~寛延期(1726‐51)25年間に,現在の文楽や歌舞伎の主要演目となる名作が次々と初演されるが,近松・紀海音(1723年(享保8)以前の豊竹座作者)時代と異なり,これらの作品の多くは合作制により生み出された。34年人形に三人遣いが考案され,人形浄瑠璃の写実的傾向はいっそう強まり,特に竹本座の人形遣い吉田文三郎は人形が〈生きて働く〉と絶賛され,彼の考案した演出,衣装などは,現在まで文楽,歌舞伎の舞台に生き続けている。文三郎が立役(男性)を得意としたのに対し,豊竹座の藤井小三郎,小八郎は名女形遣いと謳われた。…

※「吉田文三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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