賀来庄(読み)かくのしよう

日本歴史地名大系 「賀来庄」の解説

賀来庄
かくのしよう

大分川および支流賀来川流域に位置し、一時は現大分港南岸の生石いくし一帯まで含んでいたと思われる。治承元年(一一七七)八月一八日の大春日立並下文に「賀来御庄」とみえ、当庄弁官職に後家ならびに次房を任命している。地名としては長寛二年(一一六四)九月三日の由原宮宮師僧院清譲状(柞原八幡宮文書、以下集合文書名を記さない場合は同文書)に「賀来」とみえるのが早く、由原ゆすはら宮の大般若修理田・新立仁王講田各一町があった。大般若修理料田一町は保延五年(一一三九)平丸ひらまる郡司藤原貞助の寄進した阿南あなみ黒田くろだ里九坪の地を意味すると考えられるので(同年八月日平丸郡司藤原貞助田地寄進状)、賀来は本来阿南郷のうちでありその後別名として成立しさらに立券されて由原宮庄園となったと思われるが、別名化ないしは立券の過程で荏隈えのくま郷の一部を組入れたともされる。別名化の時期は不明であるが、承安二年(一一七二)五月日の由原宮宮師僧定清・御前検校僧尊印連署解状には、平丸弁済使によって賀来の大般若経修理料田などに建春門院御願寺造営料が課税されたことがみえるので、このころまでに独立の所領単位として確立していたものと考えられる。同解状では、大般若経修理料田と仁王講田・最勝講田のみについて造営料の免除を国衙に願出ているので、当地域は国衙領であった可能性が高い。庄の成立について、正応二年(一二八九)三月日の賀来社大宮司平経妙申状案は、長徳四年(九九八)の賀来社式年造営が定められた際、その造営料所として立券されたとしている。しかし一〇世紀末の立券は賀来自体が阿南郷の別名として確立しておらず、また地名さえ確認できない時期であり尚早といえよう。由原宮が豊後国一宮として確認できるのは嘉応三年(一一七一)で、先述のように承安二年にも国衙領であったとすれば、治承元年以前に立券されたものかと考えられる。文治四年(一一八八)一一月日の豊後国留守所帖案によれば、由原宮仮殿造営における造食米は、当庄年貢米ならびに平丸所当米などで勤仕するのが例であった。

豊後国弘安図田帳によると、当庄二三〇町は本庄二〇〇町と平丸名三〇町からなり、内閣文庫本豊後国弘安田代注進状では本庄の領家は一条前左大将(勘解由小路)家の後室、地頭は御家人賀来五郎惟永法名願連とある。地頭の賀来惟永は正応二年由原宮大宮司平経妙から御下知違背、非法張行などを訴えられているが、このときの三月日付平経妙申状案によると、国司大江宇久が承和三年(八三六)に宝殿を造進して以後、同社の造営は一国大営となり、祭祀も勤仕され、国司が新任すると大神宝を調進して初拝を行っていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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