朝日日本歴史人物事典 「赤根武人」の解説
赤根武人
生年:天保9.1.15(1838.2.9.)
幕末の長州(萩)藩の志士,奇兵隊総督。通称乾之丞。周防国玖珂郡柱島(岩国市)の医師松崎三宅の長男。安政3(1856)年,長州藩重臣浦靭負の家臣赤根忠右衛門の養子となり,月性や吉田松陰に学ぶ。翌4年梅田雲浜に従って上京,尊王攘夷運動に加わった。文久3(1863)年奇兵隊に参加し,10月,生野の変で河上弥市が抜けたため総督。元治1(1864)年にもうひとりの総督滝弥太郎が転役し,ひとりの総督となり,8月の四国艦隊下関砲撃に応戦した。同年,高杉晋作の下関挙兵に反対して藩庁政府との和平論を唱えたが容れられず,長州藩を脱した。上京しようとして幕吏に捕らえられたが,長州藩討幕派の説得のために釈放され帰郷。しかし藩からは幕府内応の嫌疑を受けて逮捕され,鰐石河原(山口市)で斬首された。年29。赤根の歴史的役割は,のちに明治政府の重鎮となった山県有朋らにより故意に抹殺されてきたが,戦闘に当たっては極めて勇敢で,奇兵隊にあって重要な存在であったことが残された史料に証されている。<参考文献>村上磐太郎『赤根武人の冤罪』
(三宅紹宣)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報