幕末期長州藩の志士、思想家、教育者。幼名は大次郎(だいじろう)・寅次郎(とらじろう)・寅之助、名は矩方(のりかた)、号を二十一回猛士という。生家は無給通(むきゅうどおり)、23石取。父は杉百合之助(すぎゆりのすけ)(1804―1865)、松陰は次男であった。幼くして吉田家に養子となったが、同家は大組(おおぐみ)で禄高(ろくだか)40石、山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家であった。
松陰30歳の短い生涯は多難に満ちている。しかし、これは大別すると3期に分けることができる。第1期は18歳までの少年時代、第2期は24歳までの遊学時代、第3期は獄中時代(松下村塾(しょうかそんじゅく))である。
少年時代、叔父玉木文之進(たまきぶんのしん)や兵学者山田宇右衛門(やまだうえもん)(1813―1867)、山田亦介(またすけ)(1808―1864)から兵学に関する教育を受けた。1838年(天保9)9歳のとき藩校明倫館(めいりんかん)で山鹿流兵学の講義をしたが、これから毎年一定期間明倫館で教授することになった。11歳のとき藩主毛利敬親(もうりたかちか)の前で「武教全書」を講義し、その巧みさに藩主を驚かせた。1844年(弘化1)15歳のときふたたび藩主に講義する機会があり、激賞を受け褒賞を下賜された。
1848年(嘉永1)19歳で明倫館師範となったが、このとき明倫館再興に関する意見書を提出している。同年、御手当御用掛となり山陰海岸の砲台を巡視し、海防についての報告書を提出する。20歳のとき藩府の許可を得て九州を遊学し、熊本で盟友宮部鼎蔵(みやべていぞう)を知る。21歳のとき兵学研究のため藩主に従って江戸へ出て、佐久間象山(さくましょうざん)らについて広く学ぶ。22歳のとき東北視察に出発するが、藩府の許可を得ない無届出奔であったため、翌1852年の帰藩時、亡命の罪を問われ士籍と禄高を没収される。しかし、藩主敬親の特別の計らいにより、10年の諸国遊学が許される。24歳のとき萩(はぎ)を出発して江戸へ向かうが、途中京都で諸国の志士と交遊を深める。
1854年(安政1)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、同志金子重之助(1831―1855)とともに海外渡航を企てるが失敗し、幕府に自首する。このため、江戸伝馬町(てんまちょう)の獄舎に入る。幕府は松陰を萩に送り、野山獄(のやまごく)に入る。27歳のとき、藩府は出牢(しゅつろう)を許して生家での禁錮(きんこ)を命ず。出牢した松陰は近隣の子弟を集めて塾を開くが、この塾が、玉木文之進の始めた松下村塾(当時隣家の久保氏が教授)と合体し、やがて松陰が主宰者となる。29歳のとき、松陰は同志17名と血盟し、「安政(あんせい)の大獄」を未然に防止しようと老中間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃策を企図する。目的達成のため、この案を藩府要人に示して後援を求めるが、藩府は松陰を危険人物視してふたたび投獄する。松陰は獄中においてもこの策を推進するため門人を動かすが、門人たちも投獄されてこの策は失敗する。1859年30歳のとき、幕府は藩府に松陰の江戸送致を命ずる。江戸に着いた松陰は同年(安政6)10月27日、伝馬町の獄で刑死する。
松陰の思想は、読破した多くの書籍と恩師や友人から得たいろいろな考えを蓄積して形成された。国禁を破り海外渡航を企てた松陰の考えは「規諫(きかん)の策」であり、外国の実情を実際に見聞してそれを藩主に規諫(直接訴えいさめる)しようとしたものであった。老中間部詮勝要撃策の破綻(はたん)したとき、松陰の到達した考えは「草莽崛起(そうもうくっき)」であった。これは松陰と志を同じくする多くの者が広く立ち上がり、幕府を包囲攻撃するということであった。このような松陰の思想の特徴は、「至誠留魂」の語にみられるように、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ道は開けるものだという信念であった。ここに思想と実践の一体化した松陰教育の確信があった。この教育のなかから、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山県有朋(やまがたありとも)、吉田稔麿(よしだとしまろ)など、幕末維新期に活躍する門下生が育ったのであった。著述、書簡などを収めた『吉田松陰全集』がある。墓は東京都世田谷(せたがや)区若林町松陰神社。
[広田暢久 2016年7月19日]
『『吉田松陰全集』全11巻(1972~1974/新装版・2012・大和書房)』▽『奈良本辰也著『吉田松陰』(岩波新書)』
幕末の志士,教育者。諱(いみな)は矩方(のりかた),字は義卿,通称寅次郎。松陰は号。長州藩士杉百合之助の次男として萩郊外の松本村に生まれ,山鹿流兵学師範吉田大助の養子となった。叔父玉木文之進らの教育を受け,11歳で藩主に《武教全書》を講じて早熟の秀才であることを認められた。1850年(嘉永3)九州を巡遊して平戸に山鹿家を訪れ,家学の歴史を探った。翌51年には江戸に出て西洋兵学を知る必要性を痛感し佐久間象山に入門したが,直接原書につく勉強法には進まなかった。同年末,許可なく藩邸を脱し,翌年にかけて水戸から東北,北陸と遊歴したため,士籍剝奪の処分を受けたが,その代りに10年間諸国遊学の許可をもらった。
53年ペリー来航に際しては浦賀に出かけて黒船をまのあたりにし,佐久間象山に勧められて海外の状況を実地に見極める決心を固め,長崎でプチャーチンの軍艦に乗ろうともくろんだが行き違いとなって果たさず,翌54年(安政1)再来中のアメリカ艦に暗夜下田で漕ぎ着けたが,密航を拒否された。岸に送り返されて幕府の役人に自首し,江戸の獄に入れられたのち,藩に引き渡し在所に蟄居(ちつきよ)させるとの判決を受けたが,身柄を引き取った長州藩は,慎重に過ぎて萩の野山獄に投じた。ここで同獄の囚人に孟子を講じて獄内の気風を一新し,教育者の資質を発揮し始める。在獄1年余,藩当局も処分の過当を認めて,生家の杉家に預けることに変更,55年12月出獄した。他人との接触は禁じられていたが,近隣の子弟で来たり学ぶものが多く,幽室が塾と化した。玉木文之進が始めた松下村塾は外叔の久保五郎左衛門に受け継がれていたが,そこの門弟で松陰のもとに来るものが増えたため,いつしか松陰が松下村塾の主宰者とみなされるようになった。評判が高まるにつれて萩の城下から通うものも現れた。久坂玄瑞と高杉晋作がその代表で,松下村塾の双璧と目された。久坂は松陰の妹と結婚した。松陰の講義は時勢を忌憚なく論じるところに特徴があり,それは残された講義録《講孟余話》や《武教全書講録》にもよく現れている。そこに若者が引きつけられ,彼の膝下から多数の志士が育った。明治の元勲伊藤博文,山県有朋,また萩の乱の前原一誠は,みな松陰門下である。この時期,外からは僧黙霖や月性,小浜の梅田雲浜らが文通もしくは来訪したりして,松陰の思想に影響を与えた。
58年,幕府が勅許を得ないままハリスとの間に日米修好通商条約を結ぶと,熱烈な尊王論者であった松陰は,急に反幕府的言動を強めた。ついに老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺の血盟を結ぶに及んで,藩も捨てておけず,借牢の願いを出させて同年末野山獄に再収容した。一方,安政の大獄を強行した幕府は,別途に松陰への疑惑をもち,59年江戸へ呼んで伝馬町の獄に投じた。訊問中に老中暗殺計画が現れて10月27日死刑に処せられた。
執筆者:松浦 玲
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(井上勲)
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1830.8.4~59.10.27
幕末期の思想家・教育者。長門国萩藩士杉百合之助の次男。名は矩方(のりかた),通称寅次郎,松陰は号。長門国生れ。山鹿流兵学師範だった叔父の死後,吉田家を相続,兵学師範となる。九州・江戸に遊学。1851年(嘉永4)藩の許可なく東北行を敢行して御家人召放となる。54年(安政元)ペリーが和親条約締結のため再航した折,密航を企て失敗し入獄。1年後,叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり,高杉晋作(しんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)・入江杉蔵・野村和作・前原一誠(いっせい)・伊藤博文など,幕末~明治期に活躍した人材を教育した。58年日米修好通商条約の調印を批判し,藩に老中要撃の計画を提起したりしたため再下獄。翌年幕府から藩に松陰東送の命が下り江戸に送られ,訊問に際してペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判し,処刑された。「吉田松陰全集」全10巻,別巻1巻。
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…東京都世田谷区にあり,幕末の志士吉田松陰をまつる。松陰は長州の萩に生まれ,松下村塾(しようかそんじゆく)で多くの門人を育成したが,安政の大獄に連座して1859年(安政6),30歳の若さで処刑され,遺骸は門人の手で小塚原回向院の下屋敷常行庵に葬られた。…
※「吉田松陰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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