道南十二館(読み)どうなんじゅうにたて

百科事典マイペディア 「道南十二館」の意味・わかりやすい解説

道南十二館【どうなんじゅうにたて】

14世紀から15世紀にかけてのころ,蝦夷地(えぞち)の南西部(現在の道南地方),渡島(おしま)半島の箱館(函館)(はこだて)から松前(まつまえ)・上ノ国(かみのくに)にかけての海岸沿いに,和人シャモ)によって築かれていた館の総称。1646年成立の《新羅之記録(しんらのきろく)》(松前藩最古の歴史書)などが記すアイヌコシャマインの戦の記事中に登場する志苔(志濃里)(しのり)館・箱館・茂別(もべつ)館・中野(なかの)館・脇本(わきもと)館・穏内(おんない)館・覃部(およべ)館・大(おお)館・禰保田(ねぼた)館・原口(はらぐち)館・比石(ひいし)館・花沢(はなざわ)館をいう。同記録にはこの他にもいくつかの館名がみえ,他の記録や伝承にも上記以外の館が登場するので,館の総数が12であったわけではないが,当時の和人支配地の主要なものであったとみられる。このころ和人支配地は茂別館に拠る下国家政を〈守護〉とする〈下之国〉(現在の上磯・函館地方),大館に拠る下国定季を〈守護〉とする〈松前〉,花沢館に拠る蠣崎(かきざき)季繁を〈守護〉とする日本海側の〈上之国〉の3地域に分かれていたとされる。1456年−1458年のコシャマインの戦は〈下ノ国守護職圏〉と蝦夷地東部のアイヌ勢力の接点である志苔館近辺の鍛冶屋村で,鉄製利器(マキリ)の価格をめぐってアイヌ少年が和人鍛冶と争って殺されるという事件が発端で,戦の中で茂別館・花沢館をのぞく10館がアイヌの手によって一度は陥落した。この戦で戦功をあげた武田信広蠣崎季繁女婿となって蠣崎氏継ぎ,〈上ノ国〉に勝山(かつやま)館を築いた。同館は西海岸の和人支配地とアイヌ勢力圏との境である天ノ川の河口近く,日本海交易の道を眼下におさえる要衝に位置する。志苔館跡は函館空港近くにあり,発掘調査により各種の建物跡や中国製陶磁器など多彩な遺物が発見されている。勝山館跡も一部であるが発掘調査が行われており,館跡のほか各種の建物や防禦施設,井戸などの跡,武器や日常生活用品など莫大な量の遺物がみつかっている。なおこの館の背後を取り囲むようにして夷王(いおう)山墳墓群がある(約600基)。被葬者は和人で,勝山館との深い関連があると考えられている。
→関連項目蠣崎氏

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