百科事典マイペディア 「コシャマインの戦」の意味・わかりやすい解説
コシャマインの戦【コシャマインのたたかい】
→関連項目安東氏|蝦夷|蠣崎氏|松前氏|和人地
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室町中期,北海道渡島(おしま)半島を舞台にしたアイヌ民族の蜂起。1456年(康正2)春,箱館近郊志濃里(しのり)(現,函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発し,翌57年(長禄1)東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族の大蜂起へと発展した。この蜂起によって,当時渡島半島南端に館(たて)を築いて群雄割拠していた和人小豪族の諸館が相次いで陥落,わずかに下国家政の茂別館(現北斗市,旧上磯町茂辺地)と蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の花沢館(現,上ノ国町上ノ国)の2館を残すのみとなったが,花沢館主蠣崎季繁のもとにあった武田信広(松前氏の祖)が和人軍を指揮して反撃を加え,ついにコシャマイン父子を射殺,これによりアイヌ軍の勢力は急速に弱まり鎮圧されるにいたった。蜂起の経緯や和人の動向については不明な点が多いが,和人の蝦夷地への進出がアイヌ民族との矛盾を激化させ,ついに民族的な大反撃となって結果したこと。また,この蜂起の鎮圧を契機に武田信広が和人軍の軍事的指導者たる地位を確保し,蠣崎氏の養子となり,蠣崎政権成立の大きな契機になったという点で歴史的に大きな意味をもつ事件であった。
→アイヌ
執筆者:榎森 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1457年(長禄元)5月コシャマインに率いられたアイヌの蜂起。蝦夷島における和人勢力の進出に対する最初の大規模な民族戦争。志苔(しのり)館など道南の館が次々陥落し,花沢館と茂別館の2館が残るのみであった。コシャマインを討った武田信広はこれを契機に蠣崎(かきざき)氏の家督を相続し,館主層を統一していく地歩を固めた。しかしその後もアイヌは1525年(大永5)まで断続的に蜂起をくり返し,東はムカワ,西はヨイチにまで及んでいた和人の居住範囲は狭められ,松前と上之国の天ノ川に集住したといわれる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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