日本大百科全書(ニッポニカ) 「武田信広」の意味・わかりやすい解説
武田信広
たけだのぶひろ
(1431―1494)
松前(まつまえ)氏の祖。出自については諸説があるが、松前藩側の記録では、若狭(わかさ)後瀬山(のちせやま)城主武田信賢(のぶかた)の子で、幼名を彦太郎と称したが、1451年(宝徳3)国を出て関東足利(あしかが)に下り、ついで陸奥(むつ)(青森県)の田名部(たなぶ)に至り蠣崎(かきざき)を知行(ちぎょう)。54年(享徳3)安東政季(あんどうまさすえ)に従い蝦夷(えぞ)地(北海道)に渡り、上ノ国(かみのくに)花沢館主(はなざわたてぬし)蠣崎季繁(すえしげ)のもとに拠(よ)ったとされる。57年(長禄1)のコシャマインの戦いの際、和人(わじん)軍の総大将として活躍してその鎮圧に成功。蠣崎季繁の養女(安東政季(まさすえ)の女(むすめ))を妻として蠣崎家の家督を継ぎ、実質的な和人勢力の支配者たる地位を築いた。
[榎森 進]
『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』▽『『松前町史 通説編 第1巻 上』(1984・松前町)』