遠里小野村(読み)おりおのむら

日本歴史地名大系 「遠里小野村」の解説

遠里小野村
おりおのむら

[現在地名]住吉区遠里小野一―七丁目・清水丘しみずがおか二丁目、堺市遠里小野町一―四丁・かおりおか町一―五丁・北清水きたしみず町一―三丁・砂道すなみち町一―三丁・高須たかす町一―三丁など

沢口さわのくち村の南にあり、現住吉区の南西端に位置する。宝永元年(一七〇四)大和川付替え以降は、西流する新大和川によって村域は南北にほぼ二分され、南半は現堺市に属する。村内のほぼ中央を南北に阿部野あべの街道(熊野街道)が通じており、大和川堤に至って西行し紀州街道と接続する。地形は北・東は上町うえまち台地我孫子あびこ台地に連なり、西は大阪湾に向かって緩やかに傾斜している。「東成郡誌」は地名の由来として、瓜破うりわり(現平野区)と同じく、昔瓜の産地であったので瓜生野うりうのと称したが、のちなまって「おりおの」とよぶに至ったとする。「摂陽群談」が当地名産として「姫瓜」をあげているところからみて、「うりうの」の称は瓜の生産に由来するもののように思われる。遠里小野の文字をあてたのは、古代以来の表記によるものであろう。近世に入ると一般に遠里小野と書いて「おりおの」とよんでいるが、「摂陽群談」には「世俗宇里宇野うりうの村と称す」とみえ、また「墨江村誌」によれば、昭和の初め頃になっても「うりうの」と併称されていたという。村域のほぼ中央部、現遠里小野小学校南西の大和川接岸地域および同川河床付近に弥生時代の遺跡がある。この遠里小野遺跡は昭和一四年(一九三九)に本格的な調査が行われ、末期弥生式土器・祝部陶器・土師器などが出土した。土製の漁具も豊富に出土しており、当時は漁業が盛んであったことをうかがわせる。なお同遺跡からは、縄文時代のものとみられる土器や石器も出土している。

遠里小野の名はすでに「万葉集」巻七に「住吉の遠里小野とほさとおのの真榛もち摺れる衣の盛り過ぎ行く」などとみえる。

遠里小野村
おりおのむら

宝永元年(一七〇四)の大和川の開削により旧来の村域が南北に分断され、明治四年(一八七一)の郡界変更で河北部が摂津国住吉郡に属し、現在の大阪市住吉区となり、残り河南部が旧和泉国の大鳥郡に属し、現在の堺市市域となる(住吉区の→遠里小野村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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