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楠木正行 くすのきまさつら

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

楠木正行
くすのきまさつら

[生]?
[没]正平3=貞和4(1348).1.5. 河内,四條畷
南北朝時代の武将。正成の長子。父戦死ののち,南朝に属して忠勤し,河内守兼摂津守に任じられた。正平2=貞和3 (1347) 年9月には細川顕氏を河内藤井寺,教興寺に破り,11月には山名時氏,細川顕氏らを摂津住吉,天王寺に破った。

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デジタル大辞泉の解説

くすのき‐まさつら【楠木正行】

[1326~1348]南北朝時代の武将。正成の長男。父の死後、河内守・摂津守となり、南朝軍として活躍。河内四条畷(しじょうなわて)で高師直(こうのもろなお)・師泰の軍に敗れて自害。小楠公

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百科事典マイペディアの解説

楠木正行【くすのきまさつら】

南北朝時代の武将。正成の長子。父の遺訓を守り,楠木一族を率い南朝の柱石として活躍。1347年出兵して山名時氏・細川顕氏(あきうじ)らを摂津(せっつ)などに破ったが,翌年高師直(こうのもろなお)・師泰兄弟と四条縄手(しじょうなわて)(現四條畷市)で戦い敗死。
→関連項目飯盛城楠木正儀四条畷神社渡辺津度会家行

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

楠木正行 くすのき-まさつら

?-1348 南北朝時代の武将。
楠木正成(まさしげ)の長男。父の遺領をついで河内(かわち)(大阪府)の国司,守護となり,南朝方の将として畿内(きない)各地を転戦。貞和4=正平(しょうへい)3年1月高師直(こうの-もろなお)・師泰(もろやす)の大軍を河内四条畷(しじょうなわて)にむかえ撃つが敗れて負傷し,同月5日,弟正時とさしちがえて死んだ。
【格言など】返らじと兼て思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる(「太平記」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

楠木正行

没年:貞和4/正平3.1.5(1348.2.4)
生年:生年不詳
南北朝期の武将。楠木正成の長子。左衛門尉,帯刀と称する。『太平記』の伝えるところによれば,父正成が建武3/延元1(1336)年湊川(神戸市)の戦で敗死したとき,正行は11歳であったという。このことを信ずれば嘉暦1(1326)年の出生となるが確証はない。その父正成は湊川での足利尊氏・直義軍との合戦の前に,正行を摂津国桜井(大阪府島本町)で本拠地・河内国(大阪府)に帰し,再起を期待したという。これが巷間にいう「桜井の別れ」である。正行は正成の没後,その遺領を継承し河内国の国司並びに守護として活動,畿内における南朝軍の中枢となった。 貞和3/正平2(1347)年南朝の中心的な人物の北畠親房の主戦論が主流となると,正行も東国,鎮西の南朝軍と共に兵を起こした。正行は,紀伊,河内,摂津と転戦,これに対して幕府は,細川顕氏を河内に派遣して,鎮圧に当たらせたが,正行軍の大勝となった。その後,幕府は,山名時氏の軍を援軍として送ったが,正行方はこれを摂津住吉,天王寺で迎え撃ち,激戦の末しりぞけた。こうした事態に危機感をつのらせた幕府は,ついに高師直・師泰兄弟を河内に向かわせた。貞和4/正平3年正月,河内国(大阪)の四条畷でこれを迎え撃ったが,激戦となり,ついに正行は弟の正時と刺し違えて自害した。この四条畷の戦を前にした正行は,吉野で後醍醐天皇の廟を拝したのち,出陣に当たり,如意輪寺の本堂の扉板に,やじりで「返らじとかねておもへば梓弓なき数に入名をぞとどめる」と辞世の歌を記しており,今にその遺品が伝来している。南北朝の内乱のなかで父正成の跡を追うような壮絶な最期であった。<参考文献>植村清二『楠木正成』

(小森正明)

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世界大百科事典 第2版の解説

くすのきまさつら【楠木正行】

?‐1348(正平3∥貞和4)
南北朝時代の武将。正成の子。1336年(延元1∥建武3)正成が摂津国湊川に出陣するに際し,桜井駅(摂津国三島郡)で正行と別れたと《太平記》は記すが,史実は未詳。正成戦死後,正行は楠木氏の本拠南河内で成長したとみられるが,47年南朝軍の中心として,河内国藤井寺,摂津国住吉・天王寺などで,幕府方山名時氏,細川顕氏らの軍を破った。しかし翌年1月5日,南下する高師直軍と河内国四条畷で戦って敗れ,弟正時と刺し違えて死んだ。

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大辞林 第三版の解説

くすのきまさつら【楠木正行】

1326~1348) 南北朝時代の武将。正成の長男。河内守。父の死後、南朝軍の将として活躍した。四条畷しじようなわてで高師直こうのもろなおの大軍と戦って敗れ、弟正時と刺しちがえて死んだ。小楠公しようなんこう

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

楠木正行
くすのきまさつら
(1326―1348)

南北朝時代の武将。正成(まさしげ)の長男。1336年(延元1・建武3)桜井(さくらい)駅(大阪府三島(みしま)郡)で父正成と別れて河内(かわち)に帰った正行は、遺志を継いで、楠木一族の中心となって行動し、和泉(いずみ)、河内の土豪層を吸収しつつ退勢の挽回(ばんかい)に努めた。後村上(ごむらかみ)天皇の信任を受けて、南軍の将として畿内(きない)各地を転戦した。47年(正平2・貞和3)8月には、紀伊(きい)の隅田(すだ)城(和歌山県橋本市)を攻撃し、9月には、河内藤井寺(ふじいでら)(大阪府藤井寺市)に布陣した細川顕氏(あきうじ)の軍勢を破り、11月には、顕氏の援軍として住吉(すみよし)に出張した山名時氏(やまなときうじ)の軍を破って京都まで敗走させた。この合戦の際、渡辺橋でおぼれる多数の敵兵を救ったという。山名軍敗走の報により、尊氏(たかうじ)は、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)を総大将として6万の大軍を南下させて南軍との決戦を迫った。翌年正月、両軍は河内四條畷(しじょうなわて)で激突したが、衆寡敵せず、南軍は敗退し、正行は重傷を負って自刃した。[佐藤和彦]

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世界大百科事典内の楠木正行の言及

【飯盛城】より

…南北朝内乱の史跡の一つ。1347年(正平2∥貞和3)攻勢に転じた南朝方楠木正行は,河内・摂津国で幕府方山名時氏・細川顕氏らを破ったので,足利尊氏は執事高師直らを南下させた。翌年1月5日師直は河内国四条に着き,その東方にある飯盛山には,県下野守を旗頭とする白旗一揆が布陣した。…

【観応の擾乱】より

…この幕府首脳部の対立は,複雑な利害のからみ合う幕府諸将や諸国国人層に両陣営への分裂をひきおこしたが,概していえば,畿内近国の新興外様守護や中小国人層の多くが師直を支持し,有力な足利一門守護,幕府吏僚層,東国・九州などの伝統的豪族は直義支持に傾いたといえよう。 1347年(正平2∥貞和3)楠木正行の率いる南朝軍が河内に挙兵し,直義党細川顕氏畠山国清を破ったが,高師直はみずから幕府軍を率いて48年1月正行を倒し,吉野に攻め入り行宮を焼いた。この戦果によってにわかに勢威を強めた師直に対抗するため,49年4月直義は養子足利直冬を長門探題として中国に送り,ついで側近の上杉重能・畠山直宗とともに師直打倒を図った。…

【如意輪寺】より

…南北朝期,後醍醐天皇の吉野潜幸の際勅願寺となり,1339年(延元4∥暦応2)天皇が没するとともに堂後に陵を築いて塔尾陵(延元陵)と称した。1347年(正平2∥貞和3)12月27日,南下する北朝軍を迎え討とうとする楠木正行(くすのきまさつら)が,出陣にあたり本堂如意輪堂の壁板に将士一同の名を書き連ね,〈かへらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとどむる〉と辞世の歌を残したことが《太平記》にみえる。もとは密教の寺院であったが,1650年(慶安3)に文誉鉄牛が再興してより,浄土宗となった。…

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