南北朝時代の武将。正成の子。1336年(延元1・建武3)正成が摂津国湊川に出陣するに際し,桜井駅(摂津国三島郡)で正行と別れたと《太平記》は記すが,史実は未詳。正成戦死後,正行は楠木氏の本拠南河内で成長したとみられるが,47年南朝軍の中心として,河内国藤井寺,摂津国住吉・天王寺などで,幕府方山名時氏,細川顕氏らの軍を破った。しかし翌年1月5日,南下する高師直軍と河内国四条畷で戦って敗れ,弟正時と刺し違えて死んだ。享年は《太平記》諸本により,22~25歳とひらきがある。
執筆者:熱田 公
父の正成がそうであったように,すぐれた戦略家であり人望もありながら,死闘の末に刀折れ,矢尽きて悲運の最期を遂げた英雄,という正行像の根源は,すべて《太平記》の所伝に発している。正行が敗軍の将兵にも思慕と報恩の情を抱かせるほどに人情家であったことは,1347年(正平2・貞和3)11月の摂津安部野(阿倍野)の合戦で敗れ,河流に落ちて死に瀕した500余の敵兵を救出し,衣服や薬品を与えて療治させたうえ,馬や武具までも調えて送還した話に示される(《太平記》巻二十六)。その翌月に,河内の四条畷での最後の合戦に先だち,大和の吉野に後村上天皇をたずねた正行が,同地の塔尾の如意輪堂に参詣し,堂の壁板を過去帳に見立てて一党とともに記名し,あわせて〈返(かえ)らじと兼(かね)て思へば梓弓(あずさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる〉の和歌1首を記しのこしたという話(同)も人口に膾炙(かいしや)したものである。しかし,いわば正行伝説とも称すべき一連の話題のなかで最も著名になったのは,〈桜井駅の別れ〉の場面であった。すなわち,兵庫湊川の合戦場に死を覚悟でおもむく正成が,随行していた長男正行(当時11歳か)に教訓を垂れて,あえて摂津の桜井の宿駅から急きょ本拠地の河内へと帰らせ,再起の時を期待させたという話(《太平記》巻十六)である。これが〈忠孝〉の模範として皇国史観によって喧伝され,国定教科書《修身》に載せられて国民のあいだに普及し,唱歌《青葉茂れる桜井の》(落合直文作詞,奥山朝恭作曲)とあいまって,正行像を決定的なものとした。なお,廃曲となった能楽に,この場面を構成した《桜井》がある。
執筆者:横井 清
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(小森正明)
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南北朝時代の武将。正成(まさしげ)の長男。1336年(延元1・建武3)桜井(さくらい)駅(大阪府三島(みしま)郡)で父正成と別れて河内(かわち)に帰った正行は、遺志を継いで、楠木一族の中心となって行動し、和泉(いずみ)、河内の土豪層を吸収しつつ退勢の挽回(ばんかい)に努めた。後村上(ごむらかみ)天皇の信任を受けて、南軍の将として畿内(きない)各地を転戦した。47年(正平2・貞和3)8月には、紀伊(きい)の隅田(すだ)城(和歌山県橋本市)を攻撃し、9月には、河内藤井寺(ふじいでら)(大阪府藤井寺市)に布陣した細川顕氏(あきうじ)の軍勢を破り、11月には、顕氏の援軍として住吉(すみよし)に出張した山名時氏(やまなときうじ)の軍を破って京都まで敗走させた。この合戦の際、渡辺橋でおぼれる多数の敵兵を救ったという。山名軍敗走の報により、尊氏(たかうじ)は、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)を総大将として6万の大軍を南下させて南軍との決戦を迫った。翌年正月、両軍は河内四條畷(しじょうなわて)で激突したが、衆寡敵せず、南軍は敗退し、正行は重傷を負って自刃した。
[佐藤和彦]
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?~1348.1.5
南北朝期の武将。正成の長子。帯刀・左衛門尉。父の敗死後,南朝の河内国司兼守護となり,畿内の南朝方軍事力の中心的存在になった。1347年(貞和3・正平2)8月以降,河内・紀伊で攻勢に転じ,幕府の派遣した細川顕氏(あきうじ),ついで山名時氏に大勝。事態を重視した幕府が高師直(こうのもろなお)・同師泰を河内にむかわせると,河内国四条畷(しじょうなわて)(現,大阪府四條畷市)で迎撃して敗れ,弟正時と刺し違えて自害。湊川の戦に死を覚悟で赴く父正成が,桜井の駅(現,大阪府島本町)で教訓をたれて正行を河内へ帰したとされるが,事実は不明。
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…南北朝内乱の史跡の一つ。1347年(正平2∥貞和3)攻勢に転じた南朝方楠木正行は,河内・摂津国で幕府方山名時氏・細川顕氏らを破ったので,足利尊氏は執事高師直らを南下させた。翌年1月5日師直は河内国四条に着き,その東方にある飯盛山には,県下野守を旗頭とする白旗一揆が布陣した。…
…この幕府首脳部の対立は,複雑な利害のからみ合う幕府諸将や諸国国人層に両陣営への分裂をひきおこしたが,概していえば,畿内近国の新興外様守護や中小国人層の多くが師直を支持し,有力な足利一門守護,幕府吏僚層,東国・九州などの伝統的豪族は直義支持に傾いたといえよう。 1347年(正平2∥貞和3)楠木正行の率いる南朝軍が河内に挙兵し,直義党細川顕氏・畠山国清を破ったが,高師直はみずから幕府軍を率いて48年1月正行を倒し,吉野に攻め入り行宮を焼いた。この戦果によってにわかに勢威を強めた師直に対抗するため,49年4月直義は養子足利直冬を長門探題として中国に送り,ついで側近の上杉重能・畠山直宗とともに師直打倒を図った。…
…南北朝期,後醍醐天皇の吉野潜幸の際勅願寺となり,1339年(延元4∥暦応2)天皇が没するとともに堂後に陵を築いて塔尾陵(延元陵)と称した。1347年(正平2∥貞和3)12月27日,南下する北朝軍を迎え討とうとする楠木正行(くすのきまさつら)が,出陣にあたり本堂如意輪堂の壁板に将士一同の名を書き連ね,〈かへらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとどむる〉と辞世の歌を残したことが《太平記》にみえる。もとは密教の寺院であったが,1650年(慶安3)に文誉鉄牛が再興してより,浄土宗となった。…
※「楠木正行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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