大和川の流域は奈良盆地・大阪平野にわたる。奈良盆地では
奈良盆地の水を合わせて西流し、大阪湾に注ぐ。上流の
「日本書紀」推古天皇一六年八月条によると、隋使裴世清は難波から大和川をさかのぼって
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県北部,大和高原の貝ヶ平山(822m)付近に源を発し,奈良盆地,大阪平野を経て大阪湾に注ぐ川。奈良盆地上流部では初瀬(はせ)川と呼ばれ,佐保川,飛鳥川,竜田川など奈良盆地の諸河川を合わせたのち生駒・金剛山地を横断して大阪平野に出る。幹川流路延長68km,全流域面積1070km2。古くは大阪府柏原(かしわら)市より北流して,長瀬川,玉串川のルートをたどって大阪城の北部で淀川と合流していた。この合流点付近は古代以来しばしばはんらんを繰り返し,洪水防止と新田開発のために1704年(宝永1)に流路が付け替えられ,以後は現在のように大阪市と堺市の境界をなす流路となった。古代には難波と大和を結ぶ大動脈として重要な役割を果たしたが,近世にも大坂~大和間の水運が盛んであった。剣先船と呼ばれる船が利用され,近世当時の遡航点である現奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町は水陸交通の結節点として繁栄した。現在,水運は衰えたが,灌漑用水のほかに,下流部ではその伏流水が堺市の工業用水や上水道として利用されている。現河口の大阪市側はフェリー埠頭やポートタウンとして開けており,堺市側では埋立地に多くの重化学工業の工場などが立地している。
執筆者:高橋 誠一
大和川が淀川に合流している状態では,大和川下流沿岸諸村の水害は激しく,いたるところに沼や湿地があった。大和川を柏原の地点から西流させてただちに海に流下させたいとの地元の要望により,河内国河内郡今米村の中甚兵衛らが奔走して大和川付替え工事の請願を江戸幕府に提出した。1683年(天和3),幕命により稲葉正休(まさやす)らが河村瑞賢をともなって関係河川を視察したが,大坂市中の治水と舟運を重視する立場から大和川はんらんの原因は淀川河口にあるとして,瑞賢による84-85年(貞享1-2)の工事では淀川本流の浚渫(しゆんせつ)および新堀(安治川)の開削が行われ,大和川の分流計画は退けられた。しかし,10年余を経て,新田開発をともなう治水の見地が優先して新大和川の掘削が計画され,旧本流には用水路および舟運路としての機能を残し,旧川床および沼沢地を新田開発に当てることになった。幕府は1703年(元禄16)に工事施行令を発し,04年に着工,新川掘削の上流半分を幕府が直轄,下流半分を畿内諸藩が分担して同年11月竣工した。総工費7万1503両余,そのうち3万7503両余を幕府が支出し,3万4000両を諸藩が分担した。幕府負担分の工費は新田開発の地代金でまかなわれたが,諸藩はその負担に苦しんだ。
大和川付替え工事による潰地(つぶれち)は338町余であったが,それをはるかに上回る880町余が生み出され,これを新田開発に充当して開発者から地代金を上納させ,3年間の鍬下年季(くわしたねんき)を認めて開発させた。造成された鴻池新田,菱屋新田などを総称して大和川川床新田という。これらは自給肥料の供給源としての採草地を持たず,しかもその多くは川床の砂地を開墾したものである。そのために金肥(干鰯(ほしか),油粕)を利用する綿作農業が普及し,〈皆畑ニ而,不残木綿作候,外仕付もの無御座候〉(若江郡玉井新田明細帳)という状態にあり,周辺の旧村をもまきこんで綿作にもとづく商業的農業を発展させた。
執筆者:葉山 禎作
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奈良県北部、大阪府中南部を西流する川。一級河川。源を大和高原南西部の桜井市大字小夫(おうぶ)地先に発し、奈良盆地を南東隅から北西流し、大和郡山(こおりやま)市額田部(ぬかたべ)南町付近で佐保(さほ)川と合流する。近年までこの合流点より上流を初瀬川(はせがわ)とよんでいた。ここから西へ流路を転じ、寺川、曽我(そが)川、富雄(とみお)川、葛下(かつげ)川など盆地内の諸支流を集め、奈良、大阪の県府境を南北に走る生駒(いこま)、金剛(こんごう)両山地の亀ノ瀬(かめのせ)峡谷を先行性河川として横切り、大阪府柏原(かしわら)市で大阪平野に流入する。さらに石川、東除(ひがしよけ)川などの支流をあわせ、堺(さかい)市と大阪市の境で大阪湾に注ぐ。延長67キロメートル。宝永(ほうえい)年間(1704~1711)まで大和川は柏原市より北へ流れ、大阪城の北東部で淀(よど)川に合流していた。古来、奈良盆地と大阪平野を結ぶ重要ルートで水運が利用され、近世奈良の魚梁(やな)船、大坂剣先(けんさき)船が活躍したが、1892年(明治25)大阪鉄道(現在のJR大和路線)の開通によって姿を消した。
[菊地一郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…大化改新時には畿内国の一部を占め,独立した一国ではなかったが,その後7世紀後半までに畿内を構成する一国としての河内国が成立した。 河内国の地域は東に生駒・金剛山地,北は淀川,南は和泉山脈に囲まれ,大部分は淀川と大和川の沖積地で,早くから開発が進められ良質の耕地が存在した地であった。また西に瀬戸内海を控えて水上交通の利点もあったため,大和朝廷は伝応神陵をはじめとし5世紀から6世紀にかけての巨大古墳の集中する古市古墳群の地域を全国支配や朝鮮半島進出の絶好の根拠地とし,積極的にこの地の支配にあたった。…
…近世,大和川筋を航行した川船。享保年間(1716‐36)には古剣先船211艘,新剣先船100艘,在郷剣先船78艘,古大和川筋井路川船100艘,計489艘があり,働き場は上流は大和・河内境の亀ノ瀬と支流石川の富田林から,下流の大坂京橋までとされた。…
…現在の大阪府東大阪市の西部に位置した。1704年(宝永1)の大和川付替工事にともなって旧川床に開発され,菱屋東新田(若江郡菱江川筋),菱屋中新田(同郡楠根川筋),菱屋西新田(渋川郡久宝寺川筋)の3新田に分かれている。開発者は若江郡新家村菱屋岩之助で,04年に着工,08年に竣工した。…
※「大和川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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