日本大百科全書(ニッポニカ) 「郡中惣」の意味・わかりやすい解説
郡中惣
ぐんちゅうそう
戦国時代に出現した在地領主層(国人(こくじん)、小領主)の地域的結合体の連合の一種で、ほぼ郡規模で成立したもの。対外的危機への対処と同時に、百姓などに対する在地支配を目的とする。その代表的事例である近江(おうみ)国(滋賀県)甲賀(こうが)郡中惣の場合、地頭職、荘官(しょうかん)職に基づく所領をもち、加地子得分(かじしとくぶん)権を集積していた在地領主層が、戦国期になると一族や被官を中心に「同名(どうみょう)中」を結び、さらに近隣の同名中相互で、たとえば山中(やまなか)・伴(ばん)・美濃部(みのべ)3氏の「三方(さんぼう)」のような連合を形成するようになっていた。郡中惣はこのようなより小規模の一揆(いっき)的結合を前提、中核として、それらが連合することによって、戦国期の緊迫した政治状況下で結成されたものである。これらの一揆結合は、単に軍事的同盟というだけでなく、独自の法や裁判制度によって、村落・百姓支配を行い、相互の平和を維持する組織であったことが、同名中や三方の掟書(おきてがき)、あるいは在地紛争の内部的解決を示す裁定状などからわかる。また甲賀郡中惣は、隣接して自らと同様な構成をもつ伊賀惣国(いがそうこく)一揆と同盟関係にあったことが知られる。このような在地領主層の地域的連合は、大和(やまと)国(奈良県)宇陀(うだ)郡の沢(さわ)・秋山(あきやま)・芳野(よしの)氏らが結んだ郡内(ぐんない)一揆など、畿内(きない)近国の例が多く知られているが、肥後(熊本県)の求摩(くま)・芦北(あしきた)・八代(やつしろ)3郡でも、相良(さがら)氏権力を規制する郡単位の老者(おとな)を代表とする組織の存在が指摘されている。したがって郡中惣は、上級権力や下部村落との関係などで地域的多様性・特色をもちながらも、戦国期、広範囲に存在したものと考えられる。
[久留島典子]