戦国時代の大和(やまと)の大名。順昭(じゅんしょう)の子、幼名藤勝(ふじかつ)。わずか2歳のとき父の病死によって家督を継ぎ、一族の福住宗職(ふくずみむねもと)が政務を代行した。1559年(永禄2)三好(みよし)政権の松永久秀(まつながひさひで)が乱入し、信貴山(しぎさん)城、ついで翌年多聞(たもん)城を築いて大和の大半を制圧したため、順慶は筒井城を捨てて東山内(ひがしさんない)(大和高原)や河内(かわち)に逃れた。三好政権の分裂に際しては三好3人衆と結んで久秀と対抗、筒井城を回復し67年には多聞城を包囲するまでになったが、翌年入京した織田信長と3人衆が対立、久秀が信長に降(くだ)ったため形勢逆転し、ふたたび没落した。しかし久秀の反信長の動きに乗じて71年(元亀2)決起し、辰市(たついち)城の戦いで久秀方を大破したのを契機に信長に入れられ、76年(天正4)大和一国を預けられた。翌年信貴山城に久秀を討ち、78年国内平定を完了、郡山(こおりやま)に築城して織田政権下の大名の地位を確立し、80年には信長の命により一国中の指出(さしだし)検地と破城を実施した。82年本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)から誘われたが郡山を動かず、山崎の合戦後羽柴秀吉(はしばひでよし)に参じた。そのため洞(ほら)ヶ峠で山崎の合戦の形勢を観望し、日和見(ひよりみ)をしたという俗説を生んだ。豊臣(とよとみ)政権下で大和領有を認められ、大坂築城、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いなどに参加したが、天正(てんしょう)12年に病死、養子定次(さだつぐ)が後を継いだ。
[村田修三]
安土桃山時代の大和の武将。順昭の子。幼名藤勝,藤政。1566年(永禄9)得度して陽舜房順慶と称する。興福寺衆徒の棟梁的地位たる官符衆徒を継ぎ,大和において屈指の武士であった。59年に松永久秀・久通父子の軍が大和に進出して以降,在地勢力の先頭に立ちこれと戦う。奈良南郊を前線として小規模な戦闘を繰り返したが,65年には本拠筒井を失い,総じて不利であった。74年(天正2)ころより織田信長に近づき,信長と久秀の間が不和となるにしたがって大和における立場を逆転。77年松永父子は大和信貴山城に織田信忠らと戦い敗死するが,この前後に数度信長より順慶に大和を管領すべきことが命じられている。80年大和郡山城に移る。明智光秀との結びつきはこのころより始まる。82年の山崎の戦に際しては,動揺しつつも結局豊臣秀吉にくみする。このとき洞ヶ峠にて彼が形勢をうかがったというのは後世の潤色。以後秀吉に仕えて大和の支配権を安堵された。84年8月病没。
執筆者:村岡 幹生
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(平野明夫)
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1549~84.8.11
織豊期の武将。代々興福寺衆徒の家柄で,父順昭は大和の大勢力だったが,順慶2歳のとき病没。松永久秀の侵略をうけて流寓の少年期をおくった。のち織田信長に属し,1577年(天正5)久秀討伐に功をあげ,80年大和郡山城主となり宿願の大和一国を支配した。本能寺の変後,明智光秀の誘いに応じず郡山に籠城,豊臣秀吉から大和を安堵された。能楽・茶道に造詣が深く,井戸茶碗の「筒井筒」を所持していたのは有名。
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…以後戦国時代を通じて,筒井方の拠点の城の一つとなった。80年(天正8)織田信長は当城以外の大和の城割りを命じ,当城を筒井順慶に与えた。順慶は大規模な修築に着手し,豊臣秀吉からも大和一国を安堵され,山崎の戦の翌83年には天守を築いて普請をひとまず完成させた。…
…以後,明智光秀,柴田勝家らが城番として入り,75年奈良を訪れた織田信長は当城も検分した。ついで原田直政が入り,直政戦死後,76年大和が筒井順慶に与えられると,順慶は多聞山城には入らず,同年7月から破却をはじめた。破却作業は長期にわたり,77年4階の櫓を壊したあと,79年にも石垣の石を筒井城(現,大和郡山市)へ運んでいる。…
…永享年間(1429‐41)の大和国内の長期にわたる戦乱を経て,十市氏・越智氏らと並ぶ屈指の有力武士として成長。1559年(永禄2)に松永久秀が大和に進出するや,筒井順慶は大和の在地勢力の先頭に立ってこれと戦う。その後織田信長に仕えて大和の管領権を認められ,郡山に築城し,ここに移った。…
…《太平記》にもみえる1352年(正平7∥文和1)の八幡合戦をはじめ,たびたび合戦の場となったり,陣地が置かれたりした。また,北側の淀川対岸にある山崎および天王山を望む位置にあることから,1582年(天正10)の明智光秀と豊臣秀吉の山崎の戦の際,筒井順慶がこの峠から形勢をうかがって去就を決めたという俗説を生み,勝敗の分け目を天王山というのに対し,洞ヶ峠は日和見を意味する語として使用されるようになった。現在,峠の北側には住宅・都市整備公団の男山団地があり,西側には大阪府の企業団地があるなど,付近一帯の市街地化は著しい。…
…しかし義昭と信長との不和に乗じて信長に反乱,73年(天正1)には義昭を蹶起させたが,ともに敗れ,久秀は多聞山城を信長に渡して信貴山城に閉居した。信長に起用されていた筒井順慶は76年大和守護に任ぜられ,信長の石山本願寺攻めに参加,大和では高市郡の今井や吉野郡の上市,下市の本願寺御坊を攻略,なお郡山を居城(郡山城)に定め,80年に天守閣をあげてこれを完成した。同年,信長は検地を実施して社寺や国衆らにその所領を注進させ,国衆の社寺従属(僧兵)を禁じたり,社寺領の横領を糾明したが,処分は未了のまま82年本能寺で倒れた。…
※「筒井順慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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