日本歴史地名大系 「郡山城跡」の解説
郡山城跡
こおりやまじようあと
近世の郡山城は筒井氏・豊臣氏・増田氏時代にいちおう完成された。筒井順慶は
同一五年三月、紀州
郡山城跡
こおりやまじようあと
毛利氏本拠の城。郡山は吉田の市街に接して北方にそびえる石英斑岩の小丘で、周囲約三・二七キロ、東西一・〇九キロ、南北〇・八七キロ。市街地から望めば高さがほぼ均一し、頂は全体としてテーブル状をなし、部分的にも幾多の平壇がうかがえる。本丸の標高四〇〇メートル、平地から二〇〇メートル。国指定史跡。
延元元年(一三三六)七月大江広元の曾孫毛利時親が六波羅評定衆を辞して地頭職を有した所領吉田庄に下向、郡山の東南の峰に城を築いたのに始まる。その場所を「祐長老答国司広邑書」には郡山の東南峯、「芸藩通志」は「今の貴船社の上なり」と記し、古くから旧本城と伝える場所と一致する。時親以後、累代この城を居城とし、時親の曾孫元春は在世中「郡山殿」と称せられた(年未詳六月一九日付「毛利宝乗書状」毛利家文書)。時親より一一代の幸松丸が大永三年(一五二三)七月、九歳で夭折し、叔父元就が
郡山城跡
こおりやまじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報