朝日日本歴史人物事典 「都一中(初代)」の解説
都一中(初代)
生年:慶安3(1650)
江戸中期の一中節の創始者。初代都太夫一中とも。京都の浄土真宗本願寺派明福寺の3代住職周意の次男。本名は恵俊。はじめ住職となるが,生来音曲を好んだため,寛文10(1670)年に還俗したという。京都の都万太夫座の座元都越後掾(万太夫)の弟子となり,須賀千朴といったが,のちに都太夫一中と名乗り,一中節を創始した。井上播磨掾の孫弟子で,初代岡本文弥の泣き節の系統もひいているといわれ,叙情的な語りを得意とした。はじめは主に座敷浄瑠璃として語っていたが,宝永3(1706)年11月大坂の片岡仁左衛門座で「京助六心中」を語ったのが劇場出演の最初の記録。門弟には実子の若太夫(2代目都一中)をはじめ,都国太夫半中(のち宮古路豊後掾),都秀太夫千中,都金太夫三中など優れたものが多かった。正徳5(1715)年と享保3(1718)年に江戸へ下り,市村座に出演し江戸歌舞伎のなかに上方の浄瑠璃をとり入れる先駆となった。なお没年には享保8年5月,同11年説もある。<参考文献>諏訪春雄「初代都一中の研究―その1」(『学習院女子短期大学紀要』1969年)
(吉野雪子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報