聖書に記されたイエス・キリストの受難の物語を音楽化した作品をいう。受難曲は,本来四つの福音書のいずれかをテキストとして作曲されるものであるが,なかでも《マタイによる福音書》と《ヨハネによる福音書》によるものに古今の名曲が多い。これは,マタイの記述が叙事的広がりと劇的な物語性に富み,ヨハネの記述は簡潔ながら意味深く緊迫した場面の連鎖をなすからであると思われる。古くは四つの福音書の記述を総合したテキスト〈スンマ・パッシオニスsumma passionis〉に作曲することも行われた。その特殊な形態が,イエスの十字架上の言葉を四つの福音書から集め,それをつなぐ叙事的語りを加えた〈十字架上の七つの言葉〉(シュッツとハイドンの作品がある)である。
歴史的に見ると,受難曲は〈聖週間〉に行われた聖書の受難のくだりの朗読にさかのぼる。ローマ・カトリック教会の典礼では,〈枝の主日〉にマタイ,〈聖火曜日〉にマルコ,〈聖水曜日〉にルカ,〈聖金曜日〉にヨハネの該当の個所を読誦する習わしがあった。12世紀以降は,イエスの言葉vox christiは低い声で荘重に,福音史家evangelistaの語りは中庸の声で,その他の人物と群衆の声turbaは高い声で早目に,それぞれの役柄をわけて朗誦するのが一般的となった。基準となる音高はルネサンスの時代には,ヘ音,音,音に定まり,グレゴリオ聖歌の簡素な読誦形式の一種である〈受難の読誦〉の旋律定式〈トヌス・パッシオニスtonus passionis〉が用いられた。この習慣は今日まで,一部のカトリック教会で昔ながらに守られている。
他方15世紀以降は,ルネサンスの合唱ポリフォニーの芸術の発展にともなって,徐々に多声部の作曲様式が用いられるようになった。それには大別して,二つの方法がある。
(1)モテット風受難曲 曲の全体を,福音史家の地の語りも含めてすべて多声部に作曲するもので,〈モテット風受難曲〉とよばれる。この分野で後の時代に大きな影響を及ぼしたのは,16世紀初めのロンガバルAntoine de Longavalの曲(以前はオブレヒトの作品とされた)である。そこでは,受難の読誦の旋律定式がテノールの声部に保持され,群衆の部分は4声部に,他の個々の人物は2声部に作曲されている。16世紀末のレヒナーLeonhard Lechner(1553ころ-1606)の4声部の《ヨハネ受難曲》(1593)は,このスタイルによる印象深い名作である。
(2)応唱風受難曲 福音史家の地の語りは朗誦風の独唱とし,イエスの弟子たちやユダヤの群衆など多数の人物が登場する場面を多声部の合唱に作曲するもので,劇的なリアリズムに富み,〈応唱風受難曲〉または〈劇的受難曲〉とよばれる。この場合イエスや,その他の個々の登場人物は,朗誦風の独唱の形をとるのが一般的であるが,ときには多声部に作曲されることもあった。このタイプの受難曲は,15世紀半ば以降ヨーロッパの各国に現れ,受難曲作曲の主流となる。16~17世紀の名作として知られるのは,ラッススによる四つの受難曲(1575-82),T.L.deビクトリアの二つの受難曲(1585),シュッツの三つの受難曲(1665-66)である。シュッツの作品は,朗誦風の独唱の部分ではそれぞれの登場人物の性格が旋律の起伏の中に微妙に反映し,合唱はリアリティに富む表現になっている。
17世紀中期以降は,オペラやカンタータなどの劇音楽の興隆に伴って,器楽の伴奏を伴う〈オラトリオ風受難曲〉が作曲されるようになった。オラトリオ風受難曲は音楽的に華やかであるだけでなく,歌詞の面でも,以前にはない特色をもっていた。モテット風受難曲や応唱風受難曲では,すべては聖書のテキストによって作曲され,わずかな例外は,慣習的に楽曲の冒頭におかれる受難の告知の言葉と結尾の感謝(ないし戒め)の言葉だけであった。しかしオラトリオ風受難曲では,聖書の記述の中にアリアを挿入するために新たに作詞された宗教的抒情詩が付け加えられ,またドイツ福音主義教会の場合には,それに加えて会衆の賛美の歌であるコラールが要所要所に混入されるようになった。フロールChristian Flor(1626-97)の《マタイ受難曲》(1667),タイレJohann Theile(1646-1724)の《マタイ受難曲》(1673)はその初期の例である。聖書の叙述の侵し難い客観性の中に,このように受難のドラマを見つめる信仰者の主観的心情の吐露をまじえる行き方は,受難曲を聴き手に近づけ,理解しやすいものにすると同時に,本来の典礼的・聖書的性格を危うくする傾向をはらんでいた。事実18世紀に入ると,オラトリオ風に自由に詩作された宗教的抒情詩と世俗的劇音楽の様式が,聖書の叙事的なドラマを圧迫するようになった。ハンブルクの詩人ブロッケスBarthold Heinrich Brockes(1680-1747)作詞の《血を流し,死なんとするイエスDer blutige und sterbende Jesus》と,イタリア・オペラの作詞家として有名なメタスタージオの《イエス・キリストの受難La Passione di Gesù Cristo》はその例である。これらのテキストでは聖書の言葉はほとんど完全に排除されているが,前者はヘンデル,テレマン,R.カイザー,マッテゾンらによって,後者はカルダーラ,N.ヨンメリ,パイジェロらによって作曲された。他方,J.S.バッハの《ヨハネ受難曲》(1724)は,部分的にブロッケスの詩をとり入れてはいるが,福音史家の記述を中心として受難曲本来の叙事詩的な性格を回復した名作であり,彼の《マタイ受難曲》(1729)は,ピカンダーPicander(本名Christian Friedrich Henrici,1700-64)の宗教詩をとり入れながらもさらに聖書的な性格が強く,叙事的・抒情的・劇的な要素を壮大な規模で有機的に統合した記念碑的な作品である。
バッハの没後は,宗教的な劇音楽の演奏の場所がしだいに教会から演奏会場へ移るのに伴って,本来の意味での受難曲は衰微し,代わってイエスの受難を題材としたオラトリオが主流を占めるようになった。バッハ以前の受難曲の聞きどころであった福音史家の力強いレチタティーボは消え失せて,感傷的で優美なアリアや合唱曲がはびこるのである。K.W.ラムラー作詞,グラウンCarl Heinrich Graun(1703か04-59)作曲の《イエスの死》(1755)は,その後19世紀を通じて最も頻繁に演奏された作品であるが,最初から演奏会場での演奏を目的として作られた。ベートーベンの《オリーブ山上のキリスト》(1804)やシュポーアの《救い主の最後の時》(1835)なども,この線上に連なる作品である。
本来の意味での受難曲への復帰は,ヘルツォーゲンベルクHeinrich von Herzogenberg(1843-1900)の《受難曲》(1896)を契機として,20世紀に入って再び起こってきた。ディストラーはシュッツを手本として《コラールパシオーン》(1933)を作曲し,ペッピングはバッハへの復帰を目ざして《マタイ受難曲》(1950)を作曲した。そのほか,K.トーマスやJ.アーレンスの作品など,ドイツ福音主義教会の現代の受難曲には,ネオ・バロック様式をとるものが多い。なお,カトリック系の作品として注目をひくのは,ポーランドのペンデレツキが前衛的な技法を駆使して作った《ルカ受難曲》(1965)である。
→受難
執筆者:服部 幸三
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『新約聖書』の四福音書(ふくいんしょ)のいずれかに伝えられるキリスト受難の物語に作曲された音楽。その歴史は長く、すでに初期キリスト教時代には聖週間にキリスト受難が朗唱されていたことが知られている。
中世のローマ典礼では、単旋律の受難曲が用いられた。物語に登場するイエスや群衆(トゥルバ)および福音史家の役割が分担され、劇的な効果を出すために、朗唱する音域や速度も指定された。これが後のあらゆる受難曲の起源となった。15世紀中ごろになると受難曲は徐々に長いものになるとともに、多声音楽による作曲づけがされていく。この多声音楽の典礼的受難曲は、応唱的受難曲と通作的受難曲に分けられる。前者は、単旋律の福音史家の朗唱と、じかに語りかける多声の部分が応答するもの、後者は、福音史家を含めたすべての部分が多声部で扱われているものである。16世紀イタリアではイエスのことばが作曲される受難曲も出始め、さらに17世紀にかけて応唱的受難曲が数多く生み出された。この時期の多声音楽による受難曲の重要な作曲家には、スペインのビクトリアやフランドルのラッソ(ラッスス)らがいる。
一方プロテスタント系の作品には、17世紀に至るまで応唱的受難曲が多かったが、ヨハン・ワルターによるドイツ語の応唱的受難曲は、プロテスタント受難曲の模範と仰がれた。またシュッツは三つの応唱的受難曲を残しているが、これらはルター派信仰の情熱を秘めた名作である。
17世紀なかば以後、バロック時代の劇的な要素が受難曲にも反映していく。聖書のテキストに自由な表現が挿入されるとともに、レチタティーボやアリアなどの使用により、作曲様式はオラトリオの形態に近づいていった。この傾向は18世紀を過ぎるとさらに強まり、本来の意味での受難曲は独自のテキストによる受難オラトリオに席を譲った。このような時代を背景にもちながらも、J・S・バッハによる『ヨハネ受難曲』(1723初演)と『マタイ受難曲』(1729初演)は、聖書的性格を根底に置き、そこに叙情的・劇的要素などを織り込んだ音楽史上の傑作で、受難曲本来の威厳をとどめている。20世紀におけるクルト・トーマスの『マルコ受難曲』(1927)やディストラーの『コラールパシオーン』(1933)は、シュッツやバッハの精神の復興を目ざした作品である。
[磯部二郎]
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…他方オラトリオは,オペラの影響を受けながらも,高揚した宗教的感情を表現するために合唱を重視する形式へと育っていった(ヘンデル)。中世以来の受難曲も,このオラトリオの作曲様式を吸収することによって,バロック時代に比類のない高みに達した(J.S.バッハ)。歌曲は通奏低音を伴う形が一般的であったが(アルベルトHeinrich Albert(1604‐51),クリーガーAdam Krieger(1634‐66)ら),芸術的表現の密度においては古典派以降の高みに及ばず,代わってセミ・ドラマティックな形式であるカンタータが世俗カンタータ(A.スカルラッティ),教会カンタータ(J.S.バッハ)の両面ですぐれた成果を生んだ。…
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