都賀郡
つがぐん
下野国西部から南部中央にかけて北から南に長く広がる。日光・足尾山塊の東側から流れる大谷川・田川など鬼怒川支流の上流部、最後は思川に合流する黒川・大芦川・粕尾川などの支流、渡良瀬川に入る永野川などの諸河川が南東流して上流部に深い渓谷を刻む。山麓では扇状地や谷口の小平野を形成し、下流には広く平坦で肥沃な沖積平野をつくっている。下野国最大の郡域をもち、面積では国の約四分の一を占める。近世の郡域は現在の上都賀郡西方村、日光市、鹿沼市、下都賀郡石橋町・国分寺町・壬生町・都賀町・岩舟町・大平町・藤岡町・野木町、栃木市の全域と、現上都賀郡粟野町北東部、今市市西半部、安蘇郡葛生町の東部、小山市の南西部を除く大部分、佐野市の一部などにあたる。北西日光市と群馬県の境の白根山は県内の最高峰、南端の藤岡町南部の標高は県内最低で、郡域は北の山間部と南部の平野からなる。
「和名抄」高山寺本では布多・高家・山後・山人・田後・生馬・秀文・高栗の八郷を記し、東急本は小山・三嶋・駅家の三郷を加える。また下野国府跡出土木簡には都可郷の名がみられる。古代の郡域は、寒川郡の地域を除き、現在の小山市・藤岡町・岩舟町・大平町を南限とし、これらの地域を貫流する思川・巴波川・永野川・黒川などの諸河川の上流域一帯(栃木市・鹿沼市・壬生町・国分寺町・石橋町・粟野町・西方村・今市市の一部)と現日光市に推測される。このうち高栗郷は、天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東寺司牒(正倉院文書)によって、東大寺の封戸に指定された。この封戸は少なくとも一〇世紀中期までは存続したが(天暦四年一一月二〇日「東大寺封戸庄園并寺用雑物目録」東南院文書)、平安末期にはすでに実質が失われ、代わって平安末には東大寺の便補保として薗部郷・戸矢子郷の名がみえるようになる。「万葉集」巻二〇の防人歌に、天平勝宝七年に筑紫に派遣された防人都賀郡上丁中臣部足国の「月日やは過ぐは往けども母父が玉の姿は忘れ為なふも」という一首が収載されている。また下野国府跡出土木簡中にも当郡名を記したものが見付かっている。「続日本紀」宝亀六年(七七五)七月一六日条には、当郡で黒鼠数百匹が発生、数十里の草木の根を食荒したことが報告されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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