日本歴史地名大系 「重藤村」の解説 重藤村しげとうむら 岡山県:久米郡柵原町重藤村[現在地名]柵原町重藤吉留(よしどめ)村の西北に位置し、西は藤田下(ふじたしも)村、東は塩気(しおけ)村。正保郷帳では吉留村の内。明和七年(一七七〇)の村明細帳(宝暦一三年のものに加筆訂正、田口文書)によれば、慶長九年(一六〇四)の検地帳では吉留村と別冊であったが、のち年貢割付が一緒になり、慶安二年(一六四九)から再び別々になった。元禄九年(一六九六)写という慶長検地帳控(同文書)に名請人九人がみえ、うち居屋敷持七人。 重藤村しげふじむら 大分県:東国東郡国東町重藤村[現在地名]国東町重藤綱井(つない)村の南方に位置し、東は伊予灘に面する。中世は武蔵(むさし)郷内に重藤名としてみえる。国東道が通る。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、野田・釘本ら五氏の知行分として高四三四石余、家数五六のうち本百姓・小百姓一七、名子・庭屋・牛家三八、男五一(うち名子五)・女四八、牛二一・馬二。正保郷帳では武蔵郷に属し、田高三〇〇石余・畑高七三石余で、新田が開かれており、茅山・柴山があり、日損所と注記される。 重藤村しげふじむら 福井県:福井市旧吉田郡地区重藤村[現在地名]福井市大宮(おおみや)三丁目・二(に)の宮(みや)四丁目牧野島(まきのしま)村の北にある。貞和三年(一三四七)九月、天台座主阿闍梨二品法親王が藤島下(ふじしましも)郷公文跡重藤名を瑚子丸に与えたことが南部文書にみえ(福井県史)、村名が名田から起こったことを示す。本願寺証如の「天文日記」天文二二年(一五五三)一月二七日条に「徳勝寺代越前しげ藤西了」とある「しげ藤」も当村のことと思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by