野々美谷城跡(読み)ののみたにじようあと

日本歴史地名大系 「野々美谷城跡」の解説

野々美谷城跡
ののみたにじようあと

[現在地名]都城市野々美谷町

大淀川とその支流野々美谷川の合流点の西方にあり、大淀川沿いの台地上に築かれている。築城の時期は不明。延文四年(一三五九)以前に真幸まさきの北原氏と結んだ肥後相良氏は「北郷野々三谷」まで進出、同年一〇月五日国合合戦で島津氏を破った(「島津氏久譜」旧記雑録)。その後明徳五年(応永元年、一三九四)頃までは相良氏が野々美谷を領した。応永元年七月六日、島津元久の率いる軍勢に加わった北郷義久らは相良氏家臣千町氏・牟田氏の守る野々美谷城を攻略。城は北郷氏一族の樺山氏に与えられた(「北郷久秀譜」旧記雑録、七月八日「島津元久書状写」禰寝文書など)。明徳五年八月一五日の島津元久宛行状(樺山文書)によれば、樺山音久は給分として「北郷北方内後交村椎屋跡」と「野々三谷寺社」両所の水田五町を与えられている。樺山氏は以後大永元年(一五二一)まで野々美谷を本領として確保した(「樺山長久譜」旧記雑録)。このことは都城の北郷知久が樺山氏に宛てた六月二七日付の書状(樺山文書)に「野々ミ谷」と宛書きし、また知久が末弘氏に宛てた応永二三年七月二四日付の契状(同文書)で樺山安芸守を「野々三谷」と記していることからもうかがえる。この契状で北郷知久は「公方向」の件は樺山氏を頼りにすると述べており、両氏の協調関係が推察できる。

この頃の樺山氏の知行内容については、応永三二年四月一〇日の某島津庄内坪付(樺山文書)があり、知行の門としてはねた門・つしその門・さかひその門と沙汰人分・浮免の計六町九反一〇と中霧島なかきりしま(現山田町)の森田刑部太郎門二町二反、「せいのひうのうち」の「くろ池の門」一町の計一〇町一反一〇とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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