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阿蘇惟澄 あそこれずみ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

阿蘇惟澄
あそこれずみ

[生]?
[没]正平19=貞治3(1364)
南北朝時代の阿蘇大宮司。惟景 (一説では惟国) の子。惟時の養子。南朝について,北朝方の惟時を矢部城に攻めた。正平3=貞和4 (1348) 年筑後権守となり,少弐,大友両氏と対戦,翌年惟時を南朝に帰順させ,日向国吏務職を管領。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

阿蘇惟澄 あそ-これずみ

?-1364 南北朝時代の武将。
阿蘇惟時(これとき)の娘婿。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年護良(もりよし)親王の命にしたがう。その後,一貫して南朝方にたち菊池武光(たけみつ)とともに征西将軍宮懐良(かねよし)親王について転戦。康安元=正平(しょうへい)16年肥後(熊本県)阿蘇大宮司(だいぐうじ)となる。貞治(じょうじ)3=正平19年9月29日死去。本姓は宇治,恵良(えら)。通称は小次郎

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

阿蘇惟澄

没年:貞治3/正平19(1364)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将,阿蘇大宮司。惟国の子か。惟時の娘婿,恵良氏を称す。通称小次郎。終始南朝方として肥後(熊本県)南部を中心に奮戦し,惟時と対抗。貞和4/正平3(1348)年,懐良親王の肥後入国を出迎える。このときの軍忠状は,のちに『群書類従』にも収められた。康安1/正平16年,征西府から念願の大宮司に任命される一方で、室町幕府から肥後国守護職に補任されてもいる。南朝方への功績のわりには常に菊池氏より下に目され,一族内でもその軍事的結集のため惣領惟時が重視され不遇だった。死の直前,北朝方の長男惟村に惟時の家督継承を認めることで阿蘇家の分裂を回避しつつ自らの勢力保持を図るが,次男惟武はこれに従わず惟村と対立,意図はかなえられなかった。<参考文献>『阿蘇家文書

(柳田快明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

あそこれずみ【阿蘇惟澄】

?‐1364(正平19∥貞治3)
南北朝前期の阿蘇大宮司。恵良を名のる阿蘇氏一族で,惟時の女婿。小次郎,筑後権守,筑後守を称し,晩年大宮司となる。南北朝初期,菊池氏不振のおり,八代の名和氏代官と呼応して南朝方として戦う。《群書類従》所収の〈阿蘇大宮司惟澄申状〉(原本《阿蘇文書》所収)は,肥後入国の征西将軍宮にこの間の戦功を上申したものとして著名。【阿蘇品 保夫】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

阿蘇惟澄
あそこれずみ
(?―1364)

南北朝期の武将。阿蘇大宮司。通称恵良(えら)小次郎。惟景あるいは惟国の子というが不分明。惟時の女婿。元弘(げんこう)の変(1331)以来終始南朝方として参戦。菊池武光(きくちたけみつ)の菊池家惣領(そうりょう)就任を助け、懐良親王西下後はその信を得て益城(ましき)、八代(やつしろ)など肥後南部で活躍。1345年(興国6・貞和1)には守富荘(もりとみのしょう)地頭職などに加え砥用山(ともちやま)、矢部山(やべやま)を安堵(あんど)され、1348年(正平3・貞和4)には筑後権守(ちくごごんのかみ)、翌1349年には日向国吏務職(ひゅうがのくにりむしき)に補せられ、1361年(正平16・康安1)には大宮司に就任した。しかし南朝方にたっての歴戦も、菊池氏の下風にたたざるをえず、守護大名化の方向には結び付かず、不満を残しつつ正平(しょうへい)19年(貞治3)に病没した。[工藤敬一]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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