野里村(読み)のざとむら

日本歴史地名大系 「野里村」の解説

野里村
のざとむら

[現在地名]姫路市野里五郎右衛門邸ごろうえもんてい橋之町はしのまち福本町ふくもとまち米屋町こめやちよう鍵町かぎまち坊主町ぼうずまち河間町こばさまちよう鍛冶町かじまち野里寺町のざとてらまち大野町おおのまち威徳寺町いとくじまちうめ枝町えちよう野里東同心町のざとひがしどうしんまち野里新町のざとしんまち野里中町のざとなかまち野里東町のざとひがしまち野里月丘町のざとつきおかちよう野里堀留町のざとほりどめちよう野里慶雲寺前町のざとけいうんじまえちよう野里大和町のざとやまとちよう野里上野町のざとうえのちよう一―二丁目・睦町むつみちよう

飾東しきとう郡に所属。いち川の右岸に位置し、南は国府寺こうでら村など。当村の町屋と市川の間を枝村の大日だいにち(大日堂のあった所)が占める(飾磨郡誌)。埜里とも記される。

〔中世〕

大野郷のうちに含まれる。「蔭涼軒日録」の文明一八年(一四八六)一二月二五日条に「野里鍋」、長享元年(一四八七)閏一一月二九日条に「埜里小鍋」などとみえ、当村で製作された鍋が京都での贈答に使われている。室町時代後期には当地が鋳物業の中心地となっていたようだが、いつ頃から鋳物師が集住するようになったかは未詳。なお「長秋記」保延元年(一一三五)九月二九日条に「播磨鋳師」とみえ、播磨特産として鋳物が知られていた。永正一五年(一五一八)一一月七日、芥田五郎右衛門は野里村の新右衛門尉から大村国分寺おおむらこくぶんじの売場(縄張り・商業圏の意)、すなわち東は「蔭松」(現明石市松陰か)と現加古川市、西は市川と御着ごちやく西市を限る範囲と、そのほかの鋳物販売権を買収している(「新右衛門尉売場売券」芥田文書)。その一方で、芥田氏は小寺氏被官として政所を勤め(永禄元年一二月吉日「芥田五郎衛門勘定状」同文書)、永禄一一年(一五六八)三月二日には御着城主小寺政職から野里村鋳物師惣管職に任じられ(「小寺政職判物」同文書)、同月六日に赤松義祐から播州国中鋳物師惣管職を安堵された(「赤松義祐安堵状」同文書)


野里村
のざとむら

[現在地名]鹿屋市野里町・上野町うえのちよう白水町しろみずちよう小野原町おのばるちよう高須町たかすちよう

横山よこやま村の北、高須川(野里川)流域に位置。中世は西に接する木谷きだに(古江村)と同じく下大隅郡に属した。「和名抄」に載る姶羅あいら野裏のうら郷は野里の誤りとする説もある(太宰管内志)

〔中世〕

下大隅郡南方のうち。元亨三年(一三二三)四月二一日の藤原時義譲状案(禰寝文書)に「下大隅南方内野里村」とみえ、女子しかいない時義は先祖相伝の所領である野里村弁済使職を、養子禰寝殿子息亀寿殿(清義)嫡子として譲与している。亀寿殿は禰寝南俣郡司地頭職を代々相伝する禰寝一族の一流で、東(鳥浜氏)を号した(「平氏禰寝家系図」同文書)。文和四年(一三五五)八月二五日の沙弥道恵譲状(同文書)によれば、道恵(建部清高、山本氏祖)が子息又五郎に「下大隅野里内朝井」を「禰寝院内二河ふたかわのあかゝり山よりハ南すミやの立山まて」とともに譲っている。


野里村
のざとむら

[現在地名]西淀川区野里一―三丁目・姫里ひめさと一―三丁目・花川はながわ二丁目・歌島うたじま一―三丁目など

中津川右岸にあり、対岸は海老江えびえ(現福島区)、北は三津屋みつや村・加島かしま(現淀川区)、西は中島なかじま大水道で御幣島みてじま村と画する。海老江村新家しんけとの間に野里渡があり、尼崎あまがさき(現兵庫県尼崎市)に向かう道が通る。中世野里庄の地。「春夢草」に「中島野里」で詠んだ歌二首が収められる。当地に住吉社(現住吉区)領があったという(住吉松葉大記)


野里村
ぬざとうむら

[現在地名]嘉手納町野里のざと

野国ぬぐん村から野国ぬぐん川と西海道(現嘉手納飛行場内)を挟んだ東の石灰岩台地上に位置する。ヌザトゥとよばれる。「琉球国由来記」に野里村とみえる。毛姓池城家家譜七世安宣の康熙一三年(一六七四)の項に「再転授北谷間切中真地頭職改名野里」とあり、中真なかまは野里となる以前の村名か。村成立の時期については寛文一一年(一六七一)とする説、一四七〇年から始まる第二尚氏王統以前にさかのぼるとする説の二説がある(北谷村誌)


野里村
のざとむら

[現在地名]五所川原市野里

大釈迦だいしやか丘陵の西端、長橋ながはし溜池の東南に位置し、西南は浅井あさい村、南は福山ふくやま村、北は神山かみやま村に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に野里村四八九・一石とあり、貞享元年(一六八四)の郷村帳も新田とあるが同高である。同四年の検地帳は田方五七町二反六畝五歩・畑方二六町五反五歩、田畑屋敷合せて八三町七反六畝一〇歩、村高五四一・〇二五石、漆木四一本と記す。慶安四年(一六五一)須藤彦右衛門が小知行派立により、万治三年(一六六〇)土岐助左衛門が郷足軽として各三〇石を認められた(長橋村誌)。元禄三年(一六九〇)には飯詰組に属し、村位は中で、家数四二、うち庄屋一・百姓一八・水呑二三であった(平山日記)


野里村
のざとむら

[現在地名]袖ケ浦市野里

永吉ながよし村の南西に位置する。康永元年(一三四二)八月三日の覚園寺文書目録(覚園寺文書)に「畔蒜北庄野(里カ)内田畠」とみえ、これ以前に角田修理進により鎌倉覚園かくおん寺に寄進されていた「野□」は当地と考えられる。修理進は上総権介千葉広常の弟相馬常清の孫親常・助親兄弟が角田を名乗っているので、その一流と考えられる(神代本千葉系図)。応永一八年(一四一一)九月二〇日の称名寺領畔蒜庄横田郷検田帳案(覚園寺文書)にみえる御霊社は現御霊ごりようにあったと思われる。また同二三年九月二日の畔蒜庄横田郷名寄帳(同文書)にみえる「なかミそ」は地内の中溝に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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