日本歴史地名大系 「野里村」の解説
野里村
のざとむら
〔中世〕
大野郷のうちに含まれる。「蔭涼軒日録」の文明一八年(一四八六)一二月二五日条に「野里鍋」、長享元年(一四八七)閏一一月二九日条に「埜里小鍋」などとみえ、当村で製作された鍋が京都での贈答に使われている。室町時代後期には当地が鋳物業の中心地となっていたようだが、いつ頃から鋳物師が集住するようになったかは未詳。なお「長秋記」保延元年(一一三五)九月二九日条に「播磨鋳師」とみえ、播磨特産として鋳物が知られていた。永正一五年(一五一八)一一月七日、芥田五郎右衛門は野里村の新右衛門尉から
野里村
のざとむら
- 鹿児島県:鹿屋市
- 野里村
〔中世〕
下大隅郡南方のうち。元亨三年(一三二三)四月二一日の藤原時義譲状案(禰寝文書)に「下大隅南方内野里村」とみえ、女子しかいない時義は先祖相伝の所領である野里村弁済使職を、養子禰寝殿子息亀寿殿(清義)を嫡子として譲与している。亀寿殿は禰寝南俣郡司地頭職を代々相伝する禰寝一族の一流で、東(鳥浜氏)を号した(「平氏禰寝家系図」同文書)。文和四年(一三五五)八月二五日の沙弥道恵譲状(同文書)によれば、道恵(建部清高、山本氏祖)が子息又五郎に「下大隅野里内朝井」を「禰寝院内
野里村
のざとむら
野里村
ぬざとうむら
野里村
のざとむら
- 青森県:五所川原市
- 野里村
寛文四年(一六六四)の高辻帳に野里村四八九・一石とあり、貞享元年(一六八四)の郷村帳も新田とあるが同高である。同四年の検地帳は田方五七町二反六畝五歩・畑方二六町五反五歩、田畑屋敷合せて八三町七反六畝一〇歩、村高五四一・〇二五石、漆木四一本と記す。慶安四年(一六五一)須藤彦右衛門が小知行派立により、万治三年(一六六〇)土岐助左衛門が郷足軽として各三〇石を認められた(長橋村誌)。元禄三年(一六九〇)には飯詰組に属し、村位は中で、家数四二、うち庄屋一・百姓一八・水呑二三であった(平山日記)。
野里村
のざとむら
- 千葉県:袖ケ浦市
- 野里村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報