野間仁根(読み)ノマ ヒトネ

20世紀日本人名事典 「野間仁根」の解説

野間 仁根
ノマ ヒトネ

昭和期の洋画家



生年
明治34(1901)年2月5日

没年
昭和54(1979)年12月30日

出生地
愛媛県越智郡津倉町(現・吉海町)

学歴〔年〕
川端画学校,東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科〔大正14年〕卒

主な受賞名〔年〕
二科展樗牛賞〔昭和3年〕,二科賞〔昭和4年〕

経歴
中川紀元に師事。大正11年久遠社を、翌年童顔社を結成。13年二科展初入選。昭和3年二科展で「夜のとこ」が樗牛賞受賞。柘榴社に入会し、翌年同人となる。4年「満月」が二科賞を受賞し、8年二科会会員となる。13〜14年応召し中国で兵役につく。戦後も二科展に出品したが、30年退会。鈴木信太郎らと一陽会を結成し、以後同展に出品した。挿絵画家としても活躍、坪田譲治「風の中の子供」、石川達三青色革命」、林房雄「赤ちゃん誕生」などの新聞小説の挿絵を描き、また井伏鱒二遙拝隊長」の装幀などがある。代表作に「南浦漁村」「瀬戸内海早川」など。著書に「呑馬先生釣日記」、画集「野間仁根画集」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「野間仁根」の意味・わかりやすい解説

野間仁根
のまひとね
(1901―1979)

洋画家。愛媛県生まれ。1919年(大正8)上京し、翌年川端(かわばた)画学校に学んだのち、東京美術学校西洋画科に入学。在学中から中央美術展、光風会展、二科展に出品し、25年に卒業。28年(昭和3)二科展で樗牛(ちょぎゅう)賞、翌年二科賞を受賞し、会友を経て、33年二科会会員となる。坪田譲治(じょうじ)、井伏鱒二(いぶせますじ)らの新聞連載小説の挿絵を担当。第二次世界大戦後は55年(昭和30)に二科会を退会して同志一陽(いちよう)会を結成した。海や森の主題により、多彩でユーモラスな幻想的作風を示す。

[小倉忠夫]

『『野間仁根画集』(1980・三彩新社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野間仁根」の解説

野間仁根 のま-ひとね

1901-1979 昭和時代の洋画家。
明治34年2月5日生まれ。川端画学校にはいり,のち東京美術学校(現東京芸大)を卒業。二科展出品の「夜の床」で樗牛(ちょぎゅう)賞,「ぜ・ふうるむうん」で二科賞を受賞。昭和30年一陽会を結成。坪田譲治,井伏鱒二(いぶせ-ますじ)らの新聞連載小説の挿絵もえがいた。昭和54年12月30日死去。78歳。愛媛県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「野間仁根」の解説

野間 仁根 (のま ひとね)

生年月日:1901年2月5日
昭和時代の洋画家
1979年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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