大正・昭和期の児童文学作家,小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
小説家、児童文学者。明治23年3月3日、岡山県に生まれる。1908年(明治41)早稲田(わせだ)大学文科予科に入学。在学中小川未明(みめい)に師事するが、病気や入営などで退学・再入学を繰り返したのち、15年(大正4)早稲田大学英文科を卒業。その後帰郷して家業の製織所に勤め、家業と文筆との苦しい生活が続く。26年『正太の馬』を出版。同年『赤い鳥』に最初の童話『河童(かっぱ)の話』を発表。その後同誌発表の『善太と汽車』で鈴木三重吉(みえきち)の激賞を受け、『ろばと三平』『どろぼう』『魔法』『びわの実』など40編余りを『赤い鳥』に発表する。33年(昭和8)以後は文筆に専念、35年『改造』に発表した『お化けの世界』は好評を得、出世作となった。36年9月から『朝日新聞』に連載された『風の中の子供』は、子供の心情が社会とかかわるところで描かれた作品で、文壇的地位を確固たるものにした。38年には『子供の四季』を『都新聞』に連載、翌年新潮社文芸賞を受賞。54年(昭和29)『坪田譲治全集』全八巻が刊行され、この全集で翌年芸術院賞を受賞。63年には童話雑誌『びわの実学校』を創刊。64年芸術院会員となる。昭和57年7月7日、92歳で没す。
[征矢 清]
『『坪田譲治全集』全八巻(1954・新潮社)』
小説家。童話作家。岡山県の生れ。早稲田大学英文科卒業。早大図書館につとめたのち,家業の島田製織所に就職,かたわら1919年に亀尾英四郎,相良守峯らと同人誌《地上の子》を創刊,《正太の馬》《正太の故郷》などを発表して小説修業にはげむ。26年に処女短編集《正太の馬》を刊行,文学と家業の二足のわらじがつづいたが,33年には経営権をめぐるいざこざから島田製織所をやめ,文学一筋の背水の陣をしいた。35年,山本有三の紹介で雑誌《改造》に《お化けの世界》が発表され,好評を博した。また同年,第1童話集《魔法》,第2童話集《狐狩り》も出版され,ようやく坪田文学に日が当たりはじめた。以後譲治は小説と童話の両分野で旺盛に活動,正太・善太・三平の兄弟が登場する作品は,大人にも子どもにも親しまれる家庭文学として歓迎された。また譲治は63年10月に童話雑誌《びわの実学校》を創刊,新人の育成にもつとめた。
執筆者:鳥越 信
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…明治以来,芸術的価値の世界と教育の世界が隔絶されていたのを文章によって結合させ,〈人間教育としての綴方〉を確立させていった。また,ここから坪田譲治や新美(にいみ)南吉などの児童文学者を生むとともに,全国に多くの綴方教師を生んだ。昭和期に入ると,その文芸主義的,自由主義的傾向が克服されながら,生活綴方の運動を生み出す母胎となった。…
…童話が,思い出をモティーフにすることでリアリティをもつようになったのは,昭和に入ってからのことで,回想的・私小説的方法でリアリズム児童文学が成立し,固定化するようになったが,これは現代の児童文学をかなりつよく特質づけている問題である。千葉省三は《虎ちゃんの日記》(1925)をはじめとする一連の作品で,酒井朝彦は〈木曾もの〉と呼ばれる作品で,郷愁と結びついたリリシズムを描き,また坪田譲治は〈善太・三平もの〉でリアルな児童像を造形して,それぞれにこの時期を代表している。 小川未明や秋田雨雀をさきがけとして社会性のある主題は児童文学のものになってきたが,それを決定的なものにしたのは昭和初年のプロレタリア児童文学運動で,槙本楠郎,猪野省三,川崎大治たちが活躍した。…
※「坪田譲治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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