日本歴史地名大系 「金久村」の解説 金久村かねくむら 鹿児島県:名瀬市金久村[現在地名]名瀬市金久町・柳町(やなぎまち)・井根町(いねちよう)・幸町(さいわいちよう)・永田町(ながたちよう)・末広町(すえひろちよう)・伊津部町(いつぶちよう)・久里町(くさとちよう)・石橋町(いしばしちよう)・古田町(ふるたちよう)・真名津町(まなづちよう)・入舟町(いりふねちよう)・矢之脇町(やのわきちよう)・塩浜町(しおはまちよう)・長浜町(ながはまちよう)・港町(みなとまち)伊津部(いちぶ)村の西に位置し、集落は名瀬の入江に臨む。長く伝承された金久ノロの神名が「ウテン寄り深島ノ親ノロ」であることは、金久の地名ともども寄洲に形成された集落であることを示唆している。奄美歌謡の神ぬナガレに「かねく うやのろ」(金久親のろ)と謡われている。 金久村かねくむら 鹿児島県:大島郡住用村金久村[現在地名]住用村城(ぐすく)摺勝(すりがち)村の東に位置し、集落は住用湾に臨む。北に松長(まつなが)山(四五五・二メートル)があり、西部を金久田(かねくだ)川が流れる。住用(すむゆう)間切のうちで、「南島雑話」によれば伊津部勝(いちんがち)村(現名瀬市)から須垂(すたる)方の金久村へ越える坂は難所であるという。正保琉球国絵図に「住用間切之内かねく村」とみえ、沿岸ではなく内陸部を通って諸村を結ぶ道が記されるほか、現在の内海の辺りが入江となっており、「すくるとへら」「三ツ瀬」が記され、船の出入りはないともある。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳にも「住用間切かねく村」とみえる。「大島私考」には住用間切一五ヵ村のうちとして「金久村」と記され、高一三六石余、うち享保内検後の開地は一石余、損地一石余。 金久村かねくむら 鹿児島県:大島郡大和村金久村[現在地名]大和村大金久(おおがねく)大棚(ふうだな)村の西に位置し、集落は海に臨む。地名は浜または海浜の砂地・泥地を意味するものであろう。屋喜内(やきうち)間切の大和浜(やまとはま)方のうち。大和浜の直川智が慶長年間(一五九六―一六一五)明から将来した甘蔗を最初に栽培した地が戸円(てえん)との境の磯平(いそびら)であると伝承されている。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、集落の北西に「大崎」「通り瀬」が記される。「大島私考」には大和浜方一二ヵ村のうちとして「金久村」とみえ、高二九石余、うち享保内検後の開地は二斗余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by