金太郷・金太庄(読み)かなたごう・かなたのしよう

日本歴史地名大系 「金太郷・金太庄」の解説

金太郷・金太庄
かなたごう・かなたのしよう

狭山さやま(現南河内郡狭山町)に源を発する西除にしよけ川中流の西に位置し、現金岡かなおか町を中心とする一帯。金田郷・金田庄とも記す。佐伯時重なる人物が得勝とくしよう寺に施入した貞永元年(一二三二)七月一四日の日付のある鐘銘に「河内国八上郡金太郷得勝寺」とみえるのが初見(日本考古図録)。金太郷は鎌倉中期には日置ひき庄や長曾禰ながそね郷とともにその地に河内丹南鋳物師が居住し、蔵人所左方灯炉作手として編成されていた(文永三年一二月一三日「中原光氏下文写」阿蘇品文書)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日、後宇多上皇より昭慶門院に譲与された所領の目録(竹内文平氏旧蔵文書)中に「金太」とみえ、美福門院得子(鳥羽上皇皇后)の建立した歓喜光かんきこう院の末寺である宝樹ほうじゆ院領として河内国野田のだ庄とともに伝領されてきており、京都大覚寺へ寄進されている。金太郷から金太庄の立庄は現在確認できるかぎり正平七年(一三五二)一二月日の和田助氏言上状案(和田文書)で、永仁六年(一二九八)教興きようこう(現八尾市)によってなされている。教興寺と宝樹院あるいは大覚寺との関係ははっきりしないが、教興寺が宝樹院、すなわちそれを伝領する大覚寺統を動かして立庄を図ったのかもしれない。同言上状案によると、正平七年一二月、和泉御家人和田蔵人助氏が父助康より譲与された「河内国金太郷惣判官代職長曾禰郡司職等」を安堵する国宣が与えられていたにもかかわらず、教興寺雑掌の訴えにより、永仁六年の金太庄立庄の官符を理由として両職を収公するという国宣が正平七年一〇月一三日に出されたことに対して、再び安堵の国宣を要求する訴えを起こしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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