日本歴史地名大系 「金廻村」の解説 金廻村かなまわりむら 鳥取県:西伯郡岸本町金廻村[現在地名]岸本町金廻小町(こまち)村の北、日野川下流左岸にあり、集落は越敷野(こしきの)台地北東端の狭小な沖積地に位置する。集落南西方の台地には一〇基余の古墳群がある。もと小野村の枝郷で下小野(したおの)と称し、享和三年(一八〇三)新田として届出された。のち金廻と改められ、文久元年(一八六一)領内限りで分村、明治三年(一八七〇)正式に一村扱いとなった(藩史)。金囲とも記した。五千石(ごせんごく)井手の取水口がある。本免は六ツ四歩。幕末の六郡郷村生高竈付では下小野とみえ生高五一石余・竈数六、なお村名には「金廻リト改」との注記がある。「伯耆志」によれば家数六・人数二八、林七反余。 金廻村かなまわりむら 岐阜県:海津郡海津町金廻村[現在地名]海津町金廻福江(ふくえ)村の南、長良川右岸に立地する。古くは大江(おおえ)川筋を流れていたという木曾川の土砂が堆積した地といい、近世は伊勢国桑名郡に属した。元禄一三年(一七〇〇)の伊勢国郷帳(元禄郷帳)に高一千二五石余とある。宝暦治水の目論見絵図には金廻輪中とみえ、輪中の南に油島(あぶらじま)新田が記される。安永四年(一七七五)の高須輪中村高付(原田文書)に古高一千二五石余・新高七三七石余とあり、幕府領。天明八年(一七八八)の飢人夫食願書上帳(佐野文書)にも高一千二五石余とあり、家数八六・人数三八九で、うち飢人数三六一。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by