金生封(読み)かのうのふう

日本歴史地名大系 「金生封」の解説

金生封
かのうのふう

現金生を遺称地とし、同所を含む犬鳴いぬなき川の右岸一帯に比定される庄園。観世音寺(現太宰府市)、のち奈良東大寺領。領家は東大寺東南院。観世音寺の封戸が庄園化したもので金生庄ともいった。延喜五年観世音寺資財帳に「鞍手郡五十烟 金(生)郷」とみえ、朱鳥元年(六八六)に観世音寺に施入された筑前国の封戸一〇〇戸(宝亀一一年一二月一〇日「勅」新抄格勅符抄)のうち五〇戸が金生郷に特定されたと考えられ、長保年間(九九九―一〇〇四)国司免判を受けて(保元二年九月一四日「観世音寺寺領庄園文書目録」国立公文書館内閣文庫観世音寺文書/平安遺文六)、庄園化していった。治安四年(一〇二四)金生封の公験が作成され(仁平三年四月二九日「東大寺領諸庄園文書目録」慈光明院所蔵文書/平安遺文六)、観世音寺領として立券されている。保安元年(一一二〇)観世音寺は東大寺の末寺となり、金生封の本公験一通一八枚などが東大寺に送られ(同年六月二八日「観世音寺文書目録」筒井寛聖氏所蔵文書/平安遺文新続補遺)、東大寺の僧が預所となっていることから(大治二年八月二五日「金生封年貢米結解状」尊勝院文書/平安遺文五)、東大寺が領家職を握ったと考えられる。天承二年(一一三二)東大寺から検田使らが派遣されている(同年八月二日「東大寺修理別当下文」同上)

保延七年(一一四一)大宰権帥藤原顕頼は、大宰府在庁・官人らが当封の加納田検注によって鞍手郡(国衙領)内に打入れることを止めている(同年五月五日「大宰帥庁宣案」尊勝院文書/平安遺文五)。康治二年(一一四三)には民部卿(藤原顕頼)の家領であると号して金生封田が押妨され(同年八月一二日「大宰大弐庁宣案」東大寺文書/平安遺文六)、このためか翌三年絵図が作製されている(前掲東大寺領諸庄園文書目録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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