日本古代の給与制度の一つである食封(じきふ)によって指定された戸を,封戸という。646年(大化2)のいわゆる大化改新の詔の中で,それまでの貴族等のもっていた私有地,私有民を廃止し,かわりに大夫以上に食封を支給することにしたことがみえる。しかし,当時このような法令が発布されたかどうかは疑問視されており,たとえ発布されたとしても実施された可能性は少ない。むしろ封戸の制度は壬申の乱後,天武天皇の時代に,全国的に人々を公民として支配するようになって後,公民の一部をさいて貴族,寺院等に封戸を支給する制度が順次整備されていったらしい。676年(天武5)に,西国にあった王臣の封戸を東国に移したり,680年に諸寺の封戸の期間を30年に限定したり,682年封戸の制を一時廃止するなど,政府の方針も何回か修正され,やがて大宝令(701成立)によってその制度が完成した。大宝令での封戸の規定は養老令のものとほぼ同じだとされているので,以下養老令文によってその大要をのべる。
封戸には皇親の品位によって支給されるもの(品封(ほんぷ)),役人の位階によって支給されるもの(位封(いふ)),職掌によるもの(職封(しきふ)),特別に天皇の命令で支給するもの(功封や別勅の賜封,増封など)があった。また寺への封戸(寺封)の支給は天皇の勅があった場合のみみとめられ,5年間に限って支給された。品封は一品(800戸)から四品(300戸)までの4段階により,位封は正一位(300戸)から従三位(100戸)までの6段階により支給し,妃,夫人,嬪を除く女性は半減して支給した。職封は太政大臣(3000戸),左右大臣(2000戸),大納言(800戸)に支給された。封戸が支給されると,その戸から収取される田租の2分の1と調庸などの税,仕丁(しちよう)の力役などが被支給者に与えられることになっていた。これらの田租,調庸,仕丁等については,まず対象となった封戸から国郡司が収取して,支給者にわたすことになっていた。このほか,封戸に類似した制度として,中宮に支給されることになっていた湯沐(とうもく)(2000戸)がある。
このような封戸制は大宝令によって成立したものとされ,飛鳥浄御原令では,位封が五位まで支給されていたこと,寺封の支給年代の制限が30年であったことなどが知られ,飛鳥浄御原令のほうが封戸の支給範囲もひろく,制限もゆるやかであったことが知られる。大宝令施行後の制度上の変化としては次のようなことが知られている。まず封戸は給与制度の一つであったから,支給される貴族等に対して均一な性格をもっている必要があったが,実際に編戸された戸を単位に支給した場合には,課丁の数が均一化されなくなってしまうという矛盾をきたした。そのため政府は705年(慶雲2)には封戸1戸について4丁にするという基準を定めたが,さらに747年(天平19)には正丁は5~6人,中男1人,田租は30束として計算するようにした。この結果,封戸は公民の一部が被支給者である貴族に直接所属するという性格がうすれ,国司のところで上記の基準によって税物や仕丁が算出されて支給されるという性格が強化された。いわば国司の請負による給与制度として変質したことになった。また739年に,田租を半分のみ被支給者に与えていたものが,全額支給することとなった。支給額も705年と翌年には位封を増額し,たとえば正三位の場合では130戸から250戸にした。また支給範囲を三位から四位にもどした。これは大宝令で封戸の支給を限定しようとした政府の方針がやや後退したことを意味している。おそらく,その間には貴族層の権限をできるだけ限定しようとする天皇制と貴族層とのあいだでの矛盾が存在したためであろう。
808年(大同3)になるとこの705年の改制は廃止され,大宝・養老令にきめられた本来の令のたてまえにもどった。それだけ支給額が減少したことになるが,おそらくは,9世紀初めにおける国家の財政縮小の方針に即した改変であったと思われる。9世紀以後は律令支配体制が後退するのと同時に封戸の制度もしだいに衰退していった。封戸は籍帳による公民支配が貫徹してはじめて実現しえた給与体系であったのである。ただ封戸は,指定された戸に対し被支給者の私的な支配・隷属関係があたかも存在するかのようにみえる制度であったために,荘園制が発展するようになると,荘園領主側の主張として,みずからの封戸であったということを荘園所有の理由としてあげるようになった場合がみられる。
以上のような日本における封戸制は,おそらく漢代にはじまり南北朝・隋・唐で発展した中国の封戸制をみならって採用されたものと思われる。中国の隋の場合には,食封と実封とにわかれていたが,日本ではそのような区別はみられない。むしろ実態としては,律令制成立以前の貴族と地方民との私的な隷属関係が,そのまま封戸の名称でひきつがれていた側面が強い。
執筆者:鬼頭 清明
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大宝令(たいほうりょう)や養老(ようろう)令で定められていた貴族に対する給与制度の一つ。特定数の公民の戸を支給するもので、三位(さんみ)以上に支給される位封(いふ)、大納言(だいなごん)以上の官職に支給される職封(しきふ)とが中心である。そのほか功績によって支給される功封(こうふ)があった。また寺は封戸の支給にあずからないのが一般原則で、別に勅があればかりに支給することができたが、支給期間は5年を限ることになっていた。封戸はそこからの調(ちょう)と庸(よう)および田租の半分が支給されることになっていた。封戸の制度は中国で南北朝以来整備されてきた食封(じきふ)(封戸)の制度をまねたもので、『日本書紀』は646年(大化2)から始まったとしている。封戸は公民を前提としていたので、公民制の後退とともに衰退した。
[鬼頭清明]
「ふご」とも。律令制において,食封(じきふ)支給のため封主にわりあてた公戸。賦役令(ぶやくりょう)に,封戸には課戸をあて,その全調庸と,田租の半分を封主に支給せよと規定する。残りの田租は官納とされたが,739年(天平11)全給となった。課戸ごとに戸口数が異なり,徴収される封物量が一定でないため,705年(慶雲2)1戸を4丁と定め,さらに747年には50戸のうち20戸は5丁と中男1人,30戸は6丁と中男1人とし,租は1戸40束として定額化が図られた。
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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