鈴木新田(読み)すずきしんでん

日本歴史地名大系 「鈴木新田」の解説

鈴木新田
すずきしんでん

[現在地名]小平市鈴木町一―二丁目・天神町てんじんちよう一丁目・御幸町みゆきちよう花小金井南町はなこがねいみなみちよう一―三丁目・上水本町じようすいほんちよう一―三丁目・同六丁目・上水新町じようすいしんまち三丁目

小川おがわ新田の東と南に開かれた武蔵野新田の一。玉川上水からの分水を得て寛文(一六六一―七三)から元禄期(一六八八―一七〇四)に開発が進められた後は武蔵野台地での新田開発は認められず、貫井ぬくい(現小金井市)でも享保元年(一七一六)頃から開発願を出したが許可されなかった。しかし同七年七月、幕府が新田開発奨励を発表すると、貫井村名主鈴木利左衛門は翌八月改めて新田開発願(野中家文書)を出している。これは連雀前れんじやくまえ新田(のち上連雀村、現三鷹市)より小金井村まで、砂川すながわ新田(現立川市)より関前せきまえ新田(現武蔵野市)まで、さかい新田(現同上)より恋ヶ窪こいがくぼ(現国分寺市)まで、小川新田(のち小川村)より田無たなし(現西東京市)までといった現在の連雀通・五日市街道青梅おうめ街道沿いの八〇〇町余の場所を五年で開発するというものである。しかもこの地は利左衛門の祖父の古開発の所で、野札のある四―五ヵ村(府中三町)については代地を差出して野銭も上納していると記されている。開発願には利左衛門のほかに願人組頭として善左衛門・甚五右衛門・元右衛門の三名が名を連ねていた。善左衛門は上総国万石まんごく(現千葉県木更津市)名主の野中善左衛門で、三分の一の場所を渡すことを条件に地代買請金五〇両のうち二五両の出金を依頼されていた。甚五右衛門は利左衛門の義理の兄弟である下小金井村(現小金井市)の名主関甚五右衛門、元右衛門は上谷保かみやぼ(現国立市)の名主で野中のなか新田開発願人の一人であった。享保八年一〇月に利左衛門と善左衛門の間で取交わされた覚(同文書)によれば、善左衛門は開発請負上納金を一万町につき六千両としてその土地の売払金は一万二千両と計算している。

享保九年五月に貫井村願場所として開発が許可されたのは野銭札譲請分を含めて二九九町で、その条件は小川新田同様、享保九年から同一一年までの三年間は毎年一反につき一升五合の役米を上納することであった(「武蔵野開発割渡」野中家文書)


鈴木新田
すずきしんでん

[現在地名]大田区羽田空港はねだくうこう一―二丁目

羽田村・羽田猟師はねだりようし町の東、北流する海老取えびとり川と東流する六郷ろくごう(多摩川)に囲まれ、北と東は海。「羽田史誌」によると、羽田猟師町の名主で船元を勤めていた弥五右衛門家(鈴木家)かなめ島とよばれていた出洲を譲り受けて開墾、大森おおもり村などから出百姓を募り、文化一二年(一八一五)に村立てされたという。文政一二年(一八二九)の高一二石余。その後も開発が進み、天保郷帳では高一三三石余。旧高旧領取調帳には高一三三石余と二二石余の鈴木新田が記載されている。いずれも幕府領。当新田の堤防の守護神として穴守あなもり稲荷(現羽田五丁目の穴守稲荷神社)が祀られていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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