小川新田(読み)おがわしんでん

日本歴史地名大系 「小川新田」の解説

小川新田
おがわしんでん

[現在地名]小平市仲町なかまち学園東町がくえんひがしちよう一―三丁目・学園東町・学園西町がくえんにしまち一丁目・喜平町きへいちよう一―三丁目・上水新町じようすいしんまち一―三丁目・上水本町じようすいほんちよう一―二丁目

小川村の東と南に開かれた武蔵野新田の一。享保七年(一七二二)七月幕府の方針が転換して新田開発が奨励されると、九月小川村(当時小川新田)名主弥市は開発願(小川家文書、以下断りのない限り同文書)を出している。この開発願では小川村東側の地続き一六〇町歩を三年で残らず開発し、一年に二〇両の芝年貢を上納するとしており、同九年五月許可され、願場所一六〇町七反が小川村願人弥市に、七五町七反が小川新田名主百姓宛に割渡された(武蔵野開発割渡)。開発の条件は享保九年から同一一年までの三年間は毎年一反につき一升五合の役米を上納することであった。しかし同一三年までの入村者は二二戸で、同一四年に清水しみず(現東大和市)から譲渡された二町四反と合せた二三七町三反余(堀代引一町四反余を除く)の開発場のうち、この年までに開発されたのは一六パーセント弱で、一九七町余が未開であった(享保一五年開発場年貢割付状)

小川新田
おがわしんでん

[現在地名]紫雲寺町小川

宮吉みやよし新田飛地の北に接し、集落は北陸道沿いにある。享保二〇年(一七三五)検地紫雲寺潟新田の一村で、後願人島潟しまがた(現新発田市)小川五兵衛の請地。村名は小川氏の姓による。庄屋は初め島潟村の為右衛門が勤めたが、のち東新潟ひがしにいがた(現見附市)より金井兵左衛門が移住し、以後金井氏が勤めた。元文元年(一七三六)検地帳(「郷土史概論」所収)によれば高三七三石余・反別三八町二反余、ほかに除地として秣場一町六反余・荒砂場四町一反余などがあり、総反別は四四町七反余。

小川新田
おがわしんでん

[現在地名]港区南陽なんよう町小川新田

東は藤高ふじたか新田、南と西は日光につこう川に接する。寛政八年(一七九六)竹田たけだ新田村(現海部郡十四山村)の五兵衛が願主となり、茶屋ちやや新田村・茶屋後ちややのち新田村前の外野跡四〇町三反歩を再び新田として取立て竹田新田とした。しかし寛政―享和年中(一七八九―一八〇四)水禍などで堤防決壊、名古屋の呉服商水口屋の小川伝兵衛が文化元年(一八〇四)一一月購入し、翌二年に小川新田と改めた。新田許可条件は寛政九年から二〇ヵ年作取年数引、年数明検地高成であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報