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鎌刃城 かまはじょう

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日本の城がわかる事典の解説

かまはじょう【鎌刃城】

滋賀県米原市にあった山城(やまじろ)。鈴鹿山系の霊仙(りょうぜん)山(標高1083m)の東尾根の支尾根の東端、中山道の番場宿を見下ろす位置に築かれていた城である。城名の「鎌刃」の通り、主郭から北西に延びる切り立った尾根上に曲輪群を配置した城郭で、発掘調査により戦国時代には珍しい内桝形虎口跡が出土した城として注目された。築城年代は定かではないが、鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏が居城として築いた城と伝えられている。その後、堀氏代々が居城とした。戦国時代に入ると、この地は交通の要衝にあったことから、その領有をめぐって、江北(北近江)の京極氏や浅井氏と江南(南近江)の六角氏の争いが繰り返されたところである。このため、中山道に沿って数多くの城が築かれたが、鎌刃城もその一つである。鎌刃城は江北と江南の勢力がぶつかり合う、いわゆる境目の城で、城主の堀氏は両勢力の間を揺れ動いた。たとえば、1474年(文明6)、城主の堀次郎左衛門尉は京極持清の家臣今井秀遠に攻められて討ち取られている。1533年(天文2)には、観音寺城を居城としていた近江半国守護の六角定頼が今井定清に命じて鎌刃城を攻めさせ、堀氏を追って、定清の家臣の島秀安を城代とした記録がある。その後、堀氏は六角氏に降り鎌刃城主に復帰したが、1559年(永禄2)には、堀氏は小谷城の浅井長政に臣従した。1570年(元亀1)、堀氏は織田信長に内応したため、長政に攻められて落城、長政家臣の百々越前守が城代として入城した。しかし、朝倉・浅井連合軍は同年の姉川の合戦で織田・徳川連合軍に敗れたために、鎌刃城は織田方の城となり、堀氏がまた城主として返り咲いた。翌1571年(元亀2)、鎌刃城は再び浅井長政に攻められたが、横山城(のちの福知山城)の城将を務めていた木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の援軍によって救われた。1574年(天正2)、同城一帯は織田信長の直轄領となり、その後まもなく廃城となった。主郭の周囲にめぐらされていた石垣は崩れているが、虎口の石段が良好な状態で現存しているほか、内桝形のある曲輪(くるわ)の南斜面に高さ4m、長さ30mに及ぶ大石垣が残っている。JR東海道本線米原駅からバス、西番場下車後、徒歩約1時間。

出典|講談社
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