鎌田御厨(読み)かまだのみくりや

日本歴史地名大系 「鎌田御厨」の解説

鎌田御厨
かまだのみくりや

太田おおた川下流右岸、現磐田市南東部から福田ふくで町にかけての地域に比定され、古代・中世には今之いまの浦・大之おおの浦の東方を占めていたと考えられる。戦国期には鎌田、御厨みくりや郷の呼称も表れ、江戸時代には同地域の村は御厨一七ヵ村と通称された。

伊勢神宮領鎌田御厨は延長年中(九二三―九三一)には成立していた(「吾妻鏡」寿永元年五月一六日条)。康和四年(一一〇二)一一月の内宮禰宜等注進状案写(光明寺古文書)に「鎌田御厨」とみえる。これによれば鎌田御厨一色田は在国司の許可を得て御厨住人が独力で用水路を開き開発したもので、町別凡絹一〇疋代を国衙に納入していた。だが康和四年遠江国司から田率見米を課されたため御厨惣検校村主永吉から伊勢内宮へ訴えが出され、禰宜らから国司による御厨一色田への課徴等の非例を停止するよう訴えが出された。元永元年(一一一八)三月二九日には伊勢神宮神人からの訴えに基づき前遠江守源基俊とその郎従処罰が検討され、六月一四日基俊は解任、在庁官人二名は流罪、郎従は贖銅・禁獄と決められている(中右記)。康治二年(一一四三)五月には為弘神主からその娘を経て当御厨を相伝した四人の女子から、その兄弟である神主度会高康の押妨を停止するよう訴えが出された(「某申状写」光明寺古文書)。治承二年(一一七八)には鎌田御厨四至内の艮角神領の四至が確定されて示が打たれ、国衙の妨を停止する宣旨が発給されている(建久三年八月日「伊勢神宮神領注文写」神宮雑書)

鎌倉初期には遠江国守護安田義定によって押領され、養和二年(一一八二)五月一六日、延長年中以降御厨を相伝したという伊勢外宮禰宜為保の訴えにより、源頼朝から安堵された(吾妻鏡)。その後外宮禰宜度会康高の女子である和田義盛の妻も当御厨に権利をもったが、建暦三年(一二一三)五月の和田合戦後、義盛の妻は所領没収のうえ囚人となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報