日本歴史地名大系 「長崎聖堂跡」の解説 長崎聖堂跡ながさきせいどうあと 長崎県:長崎市長崎町新大工町長崎聖堂跡[現在地名]長崎市伊勢町中島(なかしま)聖堂とも称された祀堂の跡。長崎官学の拠点でもあった。正保四年(一六四七)向井元升が長崎奉行の許可を得て東上(ひがしうわ)町に開設した私塾の立山(たてやま)書院を前身とし、多数の儒者を輩出し、また書物改が行われたが、寛文三年(一六六三)聖堂・学寮ともに焼失。延宝四年(一六七六)再興、同八年から元升の子の元成が祭主を勤めて以来、同職を向井氏が世襲した。正徳元年(一七一一)手狭として鋳銭所跡(五四五坪、長崎村域)を替地として与えられ、移築された。同年の棟札では「長崎府大成殿講堂」と記され、その規模は東二五間・西二三間五尺余・南二四間一尺余・北一五間半で(聖堂文書)、聖廟・明倫堂(講堂)・学寮・書庫・崇聖祠や杏壇門などから構成されていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by