長谷堂村(読み)はせどうむら

日本歴史地名大系 「長谷堂村」の解説

長谷堂村
はせどうむら

[現在地名]山形市長谷堂・鋳物町いものまち御手作おてさく大師堂だいしどう門前もんぜん谷地前やちまえ西前明石にしまえあかし石寺いしでら百目鬼どめき佐倉宿さくらじゆく上山かみのやま久保手くぼて

柏倉かしわぐら村の南方に位置し、川支流本沢もとさわ川中流の扇状地に立地。古くは千葉せんば(洗馬村・戦場村)とよばれたが、平安期、地内の独立丘陵たて山に勧請した長谷観音にちなみ長谷堂村と称するようになったという。縄文時代の百々山どどやま遺跡、古墳期から奈良・平安期の萩原はぎはら遺跡がある。本沢川上流左岸、塗門ぬりもん坂を登った山地りゆう山信仰によって形成された坊の旧跡と伝えられている。小滝こたき街道・上山街道が通る要衝の地で、館山に長谷堂城が築かれたのちはその城下町として発達した。

最上氏改易後は山形藩領、弘化二年(一八四五)上野館林藩領(漆山陣屋支配)となる。


長谷堂村
はせどうむら

[現在地名]石鳥谷町長谷堂

富沢とみさわ村の南にあり、周囲を大興寺だいこうじ村に囲まれる。「管轄地誌」に「松林寺大興寺村ト一村ニテ葛岡村ト称セリ、後チ分レテ三村トナリ本村ノ称ヲ用、年月詳ナラス」とある。慶長五年(一六〇〇)一一月九日の南部利直知行宛行状(秋田県立図書館蔵)によれば、「長谷堂村ニて八十石」など三二二石余が冨沢幽斎に与えられている。元和八年(一六二二)一〇月二五日の南部利直蔵入物成申付状(花巻宗青寺文書)に長谷堂の地名がみえる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一四五石余、七ヵ年平均の免は四ツ二厘七毛。


長谷堂村
はせどうむら

[現在地名]君津市糸川いとがわ

麁子崎そしざき村の南東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四二石。寛文四年(一六六四)には高岡藩領(寛文朱印留)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三三、三卿の清水領。旧高旧領取調帳では幕府領三一八石余と文久三年(一八六三)改増の同領七一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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