朝日日本歴史人物事典 「長谷川好道」の解説
長谷川好道
生年:嘉永3.8.26(1850.10.1)
明治大正期の陸軍軍人。岩国藩(山口県)藩士長谷川藤次郎の長男。藩の精義隊小隊長として戊辰戦争に参加。明治3(1870)年大阪兵学寮に入学。翌年歩兵大尉。歩兵第1連隊長として西南戦争(1877)で戦う。18~19年,フランスに派遣された。日清戦争(1894~95)では混成旅団を率いて大山巌の第2軍に属した。満州(中国東北部)と山東で連戦し旅順攻撃で勝利を収めたが,その直後の市民大虐殺は拭い難い汚名を残した。戦功により男爵,29年中将。同年桂太郎を継ぎ第3師団長。37年大将に進む。日露戦争(1904~05)では朝鮮駐箚軍司令官。終戦後,朝鮮保護条約が結ばれ,伊藤博文が朝鮮統監になると,満州朝鮮政策に関して文武離隔が広がり,伊藤と長谷川が対立し,外国の新聞にも報道されるに至った。40年,ハーグ密使事件に対して日本政府は朝鮮国王を退位させ,反日運動が激化した。45年から大正4(1915)年の間参謀総長に任命されたが政治能力に欠け,2個師団増設問題などで政党,海軍に対抗するには力不足とみられた。4年元帥となり,5年朝鮮総督に任じられたが,朝鮮啓蒙運動と経済発展に対処できず,3・1独立運動(1919.3.1)に対して銃と剣をもってしか応えられなかった。軍隊による虐殺は世界中から批判され,8年8月辞任した。<参考文献>鵜崎鷺城(熊吉)『薩の海軍 長の陸軍』
(スチュワート・ローン)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報