長門町
ながとまち
[現在地名]上越市東本町二丁目
善光寺町の東に続く北国街道(奥州街道)の両側町。北国街道は当町でいったん北折しすぐまた東折する。町の長さ東西およそ一三一間、南北およそ一一九間(高田市史)。防備施設が比較的少ない城下北側の一角を守る町で、周辺に寺社・武士屋敷の配置や道路に手が加えられている。東は青田川に架かる往下橋を渡ると中屋敷町。往下橋に向かって下る所を法花坂と称した。また町内鉤形道路を折れずに北へ向かう小路があり、ここを松平光長時代に「九間町」とよんだが、今はサガリ町ともよんでいる。
長門町
ながとまち
面積:九六・三八平方キロ
郡の南東部、南北に細長く、標高六〇〇メートルから一四〇〇メートル。東西五・五キロ、南北二〇キロ。山に囲まれた依田窪南部の峡谷地帯の町。東は蓼科山北部裾野地帯の北佐久郡立科町、西は和田村・武石村、南は大門峠を越え茅野市、北は丸子町に接する。町の中央を大門川が流れ、途中落合で和田川と合流し依田川となる。この依田川流域のうち扇状地、主として段丘上は水田、山麓地帯は畑地に利用され、最近は薬用人参が多く栽培されている。町を南北に諏訪道(主要地方道上田―茅野線)が、依田川・大門川に平行して走る。
長門町
ながとちよう
上京区下立売通七本松東入
町の南寄りを東西に下立売通が通り、町の東は六軒町通。平安京大内裏の中央やや西寄りの跡地(「拾芥抄」宮城指図)。鳳瑞町の南に飛地がある。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「長門丁」とある。「坊目誌」は明治元年(一八六八)町の東の「弘誓寺町」を合併して現町域が成立したと記す。弘誓寺町について、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「弘誓町」とし、七本松西入の地すなわち現町域の北西側に記すが、「坊目誌」では東側とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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